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投資と回収

一回性に、立ち会うための投資

時間は、
使えば減るものだと、
ずっと思っていました。

けれど実際には、
立ち会えなかった時間のほうが、
何も残さずに消えていたのかもしれません。


これまで、APLFでは次のような記事を書いてきました。

これらはそれぞれ、
「よいもの」「時間の使い方」「仕組み」という異なる入口から、
生活の密度や、投資と回収の感覚を扱ってきたものです。

今回はその少し手前に立ち戻り、
そもそもなぜ時間やお金を投じるのかという問いを、
「一回性」という観点から整理してみたいと思います。

人生は、基本的にやり直しがききません。
その意味で、すべての時間は「一回性」を持っています。

けれど現実には、その一回性にちゃんと立ち会えないまま、
多くの時間が通り過ぎている気もしています。

今日は、「高いものは贅沢なのか?」という問いを入り口に、
一回性に立ち会うための投資について、いくつかの具体例とともに考えてみます。

一回性は、意識しなければ簡単に失われる

時間は誰にとっても平等に流れます。
けれど、その時間にどれだけ「立ち会えているか」は、決して平等ではありません。

なんとなく流して聴いた音楽。
途中で気が散ったまま観終えた映画。
空腹を満たすためだけに済ませた食事。

それらは確かに「時間を使って」はいますが、
体験として残っているかというと、心もとないことが多い。

一回性は、放っておくと簡単に失われます。
だからこそ、一回性に立ち会える状態をどうつくるかが、
投資という行為の本質なのではないかと思うようになりました。

音楽が「消費」から「同伴」に変わった

その感覚を強く意識するようになったきっかけの一つが、
Beoplay H100というヘッドホンを導入したことでした。

正直に言えば、価格は安くありません。
迷いもありましたし、「贅沢なのでは」という気持ちもありました。

けれど実際に起きた変化は、音質の良し悪し以上に、
音楽との関係が変わったことでした。

  • 普段は、部屋でスマートスピーカーをBGMのように流しています。
  • 一方で、集中して聴くときはヘッドホンを使い、「聴く時間」を切り出すようになりました。
  • 外出時も音楽は流していますが、音が良いことで景色の感じ方が変わります。

音楽の量が増えたわけではありません。
ただ、一曲一曲に立ち会える確率が上がった
持ち運べるコンサートホール、という表現が一番近い感覚です。

没頭は「演出」ではなく「阻害要因の削減」で生まれる

同じ構造は、映像体験にもあります。
テレビとPlayStationの間に、Philips Hue Sync HDMIを導入しました。

映画やゲームに連動して、照明の色や明るさが自動で変わります。
これによって、映画を見る本数が増えたかというと、むしろ減っています。

ただし、一本の映画に没頭できる確率は、明らかに上がりました。
照明をどうするか、雰囲気をどうつくるか、という準備が消え、
再生するだけで「場」が立ち上がる。

これは娯楽を贅沢にする話ではありません。
一回性に入り損ねないための設計だと感じています。

食もまた、「高い=贅沢」ではなかった

この感覚は、食にも広がっていきました。
昔は、食べ放題や量の多さに惹かれることもありました。

けれど最近は、量より質を自然と選ぶようになっています。
食事の回数が減ったわけでも、外食をやめたわけでもありません。
ただ、一食一食に立ち会えるかどうかが基準になりました。

値段だけを見れば、高く感じる食事もあります。
けれど、集中して味わい、余韻が残り、身体の調子まで含めて返ってくるなら、
それは決して浪費ではなく、一回性への投資だと思えるようになりました。

高いものは、贅沢ではなく「態度のコスト」

高いヘッドホン、高い照明システム、質の高い食事。
これらは一見、贅沢に見えます。

けれど共通しているのは、量や回数を増やさないことです。
SNSで分かりやすく映えるものでもありません。
他人に説明しづらい変化です。

それでも確かに起きているのは、
一回一回に、ちゃんと立ち会えるようになるという変化でした。

もちろん、お金には限度があります。
すべてを高くすればよいわけではありません。
だからこそ、「全部を良くする」のではなく、
いくつかを、確実に立ち上げるというバランスが大切なのだと思います。

おわりに:時間は、立ち会ったぶんだけ増えていく

時間は、使えば減るものだと思っていました。
けれど実感としては、少し違います。

立ち会えなかった時間は、何も残さず消えていく。
立ち会えた時間は、あとから静かに返ってくる。
その差が、生活の密度を変えていくのだと思います。


贅沢かどうかは、
値段では決まりません。

その時間に、
ちゃんと居合わせられたか。

それだけが、
回収されるかどうかを、
決めている気がしています。

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Shingo Takenaka

Shingo Takenaka

しなやかな律を探る実践者|APLF主宰

北海道・苫小牧市に生まれ育つ。東京大学大学院を修了後、外資系テック企業で働きながら起業。 現在は、人・もの・自然をつなぐ活動を軸に、自己の律と他者との共生を探求しています。 APLFでは「自分らしく、しなやかに生きる」ための実践知を静かに発信し、日々の整えから人生の投資と回収まで、思考と行動を重ねながら日常の美しさを見つけ続けています。

  1. 0の側に触れた夜— 向きが変わっていたことについての記録

  2. 静かな呼吸としてのAPLF─ 強い言葉を使わない、という選択について

  3. 世界と距離を取るという、生き方 ─ ここにいながら、巻き込まれすぎない

このメディアをつくっている人

Shingo Takenaka

APLF主宰

しなやかに、自分の律で生きる
人と自然、もののめぐりを見つめながら
東大院|外資テック|起業10年

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去年の旭山で。

何をしているのかは、よく分からない。
でも、ずっと見ていられた。
.
光の向きで、部屋の表情が変わる。
ゆっくりと火の季節になってきた。
.
ひとりで歩く夜でも、
どこかで誰かとつながっている気がする。

看板の灯りや、店に流れる小さな気配が、
そっとこちらの歩幅を整えてくれる。

この街の夜にも、静かなやさしさがある。

日々、誰かや何かとの出会いがあって、
それが過剰な意味を持たなくてもいい。
気負いすぎず、気負わなすぎず、
ただ今日を歩いていけばいい。
.
失われていくものには、静かな美しさがある。

街も、人も、建物も、生きているように変わっていく。
生まれ、育ち、そして少しずつ朽ちていく。

その流れは止められない。
だからこそ、心が動くのだと思う。

かつて誰かが暮らし、笑い、
生活の音があったはずの場所に立つと、
そこに残る “気配” に触れることがある。

完全には戻らないもの。
もう取り戻せない時間。

その不可逆さが、優しさや懐かしさを生む。

失われるからこそ、
大切にしようと思えるし、
誰かに優しくなれたり、
いまを丁寧に味わえるようになったりする。

衰えることは、ただのマイナスではない。
そこから新しい命や文化が生まれ、
誰かが受け継ぎ、形を変えながら残っていく。

すべてが永遠に続く世界より、
終わりがある世界のほうが、きっと美しい。

生命も、街も、建物も、
変わっていくことで息をしている。

その無常を抱きしめながら、
今日をちゃんと生きていきたい。

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