ある日、
作品を見に行ったつもりが、
時間に触れて帰ってきました。
驚いたのは、
新しさではなく、
ずっと前からここにあった感覚でした。
30代後半から40代に差しかかる頃、
人は次第に「どう生きるか」よりも、
「どう生き切るか」を考え始めるのかもしれません。
これは、ある個展をきっかけに、
私の中で時間が重なった出来事についての記録です。
生きることと、手段としての表現
かつて私は「良く生きたい」と考えていました。
けれど最近は、良い人生かどうかは、それほど重要ではないのではないかとも思います。
良くても悪くなくても、
結局のところ「生きる」という事実だけが、静かに残ります。
食べて、息をして、眠る。
生物として必要な営みを繰り返しながら、
人は数学を学び、ものをつくり、
お金を稼ぎ、芸術に触れます。
それらはすべて手段です。
けれど同時に、その手段たちが、
人生の風景や色合いを決定的に形づくっているのも確かです。
たまたま、出会うということ

GWの最中、銀座で開かれていた小さな個展に足を運びました。
珍しく「個展に行こう」と決めて出かけた展示でした。
とはいえ、きっかけはいつも通りです。
Instagramをふらふらと眺めていて、
たまたま目に留まった投稿が始まりでした。
私は、予定を立てて動くよりも、
散歩の途中で偶然出会うものの方が、身体に残りやすいタイプです。
先のことを決め切らず、環境に身を置いてみる。
そこで何が起こるかは、行ってみないと分かりません。
井の中の蛙だった頃

少し、過去の話をします。
私は22歳まで北海道にいました。
高専という、良くも悪くも閉じた世界で7年間を過ごし、
学校と実家を往復する生活を送っていました。
当時の私は、完全に井の中の蛙でした。
東京には、テレビの向こう側の世界がそのまま存在していると信じていました。
よく分からないからこそ、
想像し、空想し、心を膨らませていたのだと思います。
やがて縁があり、東京大学大学院で研究をすることになり、
23歳で北海道を出ました。
東京は、想像以上に情報量の多い場所でした。
学び、遊び、人に会い、街を歩きました。
24歳のとき、MITでの研究交流会に参加し、
世界が一気に開いていくような感覚を覚えました。
あの頃の自分は、今でも私の中に、
ひとつの基準点として存在しています。
情緒という、心の糸口

今回の個展のタイトルには、「情緒」という言葉が使われていました。
「情」は心。
「緒」は糸口。
情緒とは、心が動き始める“きっかけ”のようなものです。
感情そのものというよりも、
感情が立ち上がる直前の、かすかな揺れ。
それは人の内側だけにあるものではなく、
場や空気、モノ、風景など、あちこちに散らばっています。
それらが、ふとした瞬間につながったとき、
心は静かに動き始めます。
驚きとは、時間が重なる瞬間
展示空間に立ったとき、
私は作品を「見た」というよりも、
自分の中の時間が、急にねじれたような感覚を覚えました。
40代の自分と、23歳の自分が、
同じ場所に立っているような感覚です。
若い画家の作品に触れながら、
自分が若かった頃の空想や、
可能性に満ちた感覚が、静かに呼び戻されていました。
驚きとは、新しさではなく、
過去と現在が、同時に立ち上がることなのかもしれません。
※本稿で触れている体験は、少し前の出来事です。
それでもなお、いまの生活の中で、
静かに作用し続けている感覚があります。
たとえば、当時選んだ一枚のTシャツが、
日常の風景の一部として、いまもそこにあります。
まだ、跳べる。
まだ、空想できる。
井の中の蛙、大海を知らず。
されど空の蒼きを知る。
あの頃、
空を見上げていた自分は、
確かに、今もここにいます。
情は、心に青と書きます。
それはきっと、
見上げた空の色なのだと思います。
