雨の日に、
傘を差すという行為は、
思っている以上に、
多くの選択を含んでいます。
濡れないためか。
使い切るためか。
それとも、
共に歩くためか。
ここ何年も、私は傘を買うといえば、
ほとんどがコンビニでビニール傘でした。
出先で雨に降られ、
とりあえず一本買う。
それだけの行為です。
けれど、ある一本の傘をきっかけに、
「選ぶこと」と「使うこと」について、
あらためて考えるようになりました。
傘を買わなくなった理由
出先で雨に降られ、コンビニで傘を買う。
そのたびに、家には透明で味気のない傘が増えていきます。
捨てるのは面倒で、
気づけばどこかに立てかけたままになり、
いつの間にか忘れてしまう。
愛着がないので、
電車や店に置き忘れても、
「まあいいか」で終わってしまいます。
問い合わせたところで、
同じような傘が多すぎて、
自分のものに辿り着ける気もしません。
使い捨てが生む、見えないコスト
忘れられた傘は、
きっとどこかで廃棄されているのだと思います。
その手間や費用は誰が払っているのか。
お金は誰かが払っているのかもしれませんが、
埋め立てられた土地や環境も、確かに代償を払っています。
安く、便利であること。
それ自体が悪いわけではありません。
けれど、その裏側で何が起きているのかは、
つい見えにくくなってしまいます。
一本を選ぶ、という行為

そんな中で、ある企画をきっかけに、
久しぶりに「一本の傘を選ぶ」という行為をしました。
それは、高いから選んだのではありません。
有名だからでも、特別だからでもありません。
使い捨てではなく、
使い切る前提で選びたい。
その感覚が、久しぶりに戻ってきたのです。
使うことで、ものは完成する
選んだのは、水色の傘でした。
不思議なことに、
その一本があるだけで、
雨の日が少し楽しみになりました。
濡れないための道具だったはずの傘が、
生活のリズムを変えていきます。
使われて、濡れて、
それでもまた使われる。
その中で、傘はようやく傘になっていく。
当時を振り返ると、
ちゃんと選んで傘を買ったのは、
ずいぶん久しぶりのことでした。
それだけ、
「間に合わせる」という選択が、
いつの間にか日常に染み込んでいたのだと思います。
濡れることを引き受ける
ふと、小学校の頃に読んだ
「おじさんのかさ」という物語を思い出しました。
大事にしすぎるあまり、
傘を使わずに抱えて歩くおじさん。
けれど、濡れた傘の良さに気づいたとき、
ようやく傘は役割を果たし始めます。
使われてこそ、道具は生きる。
それは、傘に限った話ではありません。
モノは、使ってなんぼ。
そして、
この生命も、
使うしかありません。
取っておくことはできないからこそ、
濡れながら、
傷みながら、
燃やしていく。
それぞれの色で。
それぞれの音で。
