しなやかに、自分の律で生きるための実践知メディア

驚き

共にある表現

朝、
時計を見る。

数字の手前に、
ひとつの色がある。

何かを得ようとしなくても、
ただ、そこにある。


これは、
ある体験から始まり、
ひとつの選択を経て、
日常の中に静かに残っていった、
感覚の連なりについての記録です。


「持ち運べるアート」という言葉に、初めて引っかかったのは数年前のことでした。
それはコンセプトとして魅力的で、どこか“いいことをしている”ような気分にもなりました。

けれど今振り返ると、いちばん面白いのはそこではありません。
Tシャツや傘、そしてApple Watchの盤面にまで、同じ作家の作品が自然に馴染んでいる。
しかも、それを「特別なこと」として扱わなくなっている。
その状態そのものが、私にとってひとつの驚きでした。

※ここで触れている体験は、少し前から続いている日常の一部です。

「持ち運ぶ」より前に、「共にある」

作品は、飾られたり、身につけられたり、使われたりします。
そのどれもが「持ち運ぶアート」という言葉に含まれるのだと思います。

ただ、私にとっていちばん大きかったのは、
持ち運ぶことそのものよりも、作品が生活の中で「共にある風景」になっていったことでした。

意識して取り入れたつもりが、いつの間にか意識しなくなる。
それでも、確かにそこにあり続ける。
根づいたものは、主張しなくなるのだと思います。

飾るということ:着るためのTシャツではなく

最初に生活へ入り込んできたのは、Tシャツでした。
もちろん着ることもできますが、私の場合は「着る」より先に、空間の一部になっていきました。

部屋の中に、作品がある。
それだけで、場の空気が少し変わります。
何かが派手に変わるわけではありません。
ただ、見えるところに「色」や「気配」が置かれることで、生活の輪郭が少し整うような感覚があります。

それは装飾というより、
自分がどんな世界に身を置きたいのか、という静かな意思表示に近いのかもしれません。

使うということ:雨の日に持ち出せる表現

次に、傘が生活に入ってきました。
傘は実用品です。濡れないための道具です。
けれど、その表面に作品の気配があると、雨の日の時間が少し変わります。

「雨だから仕方ない」ではなく、
「雨の日にも連れて行ける」へ。
その変化は、気分転換というより、日常の受け取り方の微調整に近いものです。

傘については別記事で触れましたが、
ひとつだけ確かなのは、道具は使われて初めて完成する、ということでした。
表現もまた、触れられ、持ち出され、生活の中で擦られていくことで、はじめて“共にあるもの”になっていく気がします。

使うことで、ものは完成する

見るということ:Apple Watchが「額縁」になる

そして今、もっとも頻繁に作品と出会っているのは、Apple Watchの盤面です。
時計は本来、管理の装置です。
時間を測り、区切り、次へ進ませるためのものです。

ところが盤面に作品を置くと、「時間を見る」という行為が少し変質します。
数字を確認するだけの動作に、ほんの一瞬、色が差し込む。
それだけです。けれど、その“それだけ”が、意外と大きいのだと思います。

私の場合、癒されるとか、鼓舞されるとか、特筆すべき効能はありません。
ただ、時間を見るときに作品が目に入ると、「いいな」と思います。
構えず、狙わず、ただ良いと思う。
その自然さが、いちばん自分に合っていました。

機械的な動作が、芸術的な時間に変換される。
大げさに言えばそうなのですが、体感としてはもっと静かです。
生活の細部に、ふっと作品が入り込む。
それだけで、一日の手触りが少しだけ変わっていく気がします。

コンセプトが、風景になるとき

思い返せば、最初は「持ち運べるアート」という言葉に惹かれていました。
けれど今は、その言葉を思い出さなくても、生活の中に作品があります。

説明しなくなった。
語らなくなった。
それでも続いている。
その状態は、コンセプトが“風景”に変わった証拠なのだと思います。

そして面白いのは、風景になったものほど、こちらを静かに支えてくれることです。
何かを変えようとしなくても、世界の見え方が少しずつ更新されていく。
私にとって「持ち運ぶアート」は、いつの間にかそういう存在になっていました。

ただある、ということ

作品がただある。
時計の盤面に、ただある。
部屋の片隅に、ただある。
雨の日の手元に、ただある。

その「ただある」感じは、私が大切にしている生き方の感覚ともどこかで重なっています。
良い・悪い、成功・失敗、役に立つ・立たない。
そういった評価の手前に、ただ在るという事実があり、生活はそこから始まります。

表現もまた、意味づけられなくても、役立てられなくても、
ただ在ることで、静かに作用し続けることがある。
そのことを、私は毎日、手首の上で思い出しています。


連れて歩く。
身につける。
使う。
ただ、見る。

何かを変えるためではなく、
ただ共にあるために。

時間がただあるように、
生がただあるように、
表現もまた、ただ在る。

今日も、
時計を見るたびに、
ほんの少しだけ、世界がほどけます。


日常に、ひとつのきっかけを
10の小さなスイッチを受け取る

日常の小さな選択や行動の中に、
感性をひらく“遊び”の余白があります。

「大人の遊びかた研究室」では、
そんな実験や気づきを、静かにシェアしています。

研究室をのぞいてみる ➝

  • この文章を書いている人
  • 最近の実践と気づき
Shingo Takenaka

Shingo Takenaka

しなやかな律を探る実践者|APLF主宰

北海道・苫小牧市に生まれ育つ。東京大学大学院を修了後、外資系テック企業で働きながら起業。 現在は、人・もの・自然をつなぐ活動を軸に、自己の律と他者との共生を探求しています。 APLFでは「自分らしく、しなやかに生きる」ための実践知を静かに発信し、日々の整えから人生の投資と回収まで、思考と行動を重ねながら日常の美しさを見つけ続けています。

  1. 0の側に触れた夜— 向きが変わっていたことについての記録

  2. 静かな呼吸としてのAPLF─ 強い言葉を使わない、という選択について

  3. 世界と距離を取るという、生き方 ─ ここにいながら、巻き込まれすぎない

このメディアをつくっている人

Shingo Takenaka

APLF主宰

しなやかに、自分の律で生きる
人と自然、もののめぐりを見つめながら
東大院|外資テック|起業10年

.
去年の旭山で。

何をしているのかは、よく分からない。
でも、ずっと見ていられた。
.
七夕から、大晦日まで。

振り返ってみると、
できたことよりも、
形にならなかったものの方が
たしかに残っている気がします。

言葉にならなかった感覚、
途中で立ち止まった問い、
まだ名前のついていない違和感。

それらを急いで回収せず、
このまま年を越してみようと思います。

Photo by ruedi häberli on Unsplash
.
光のゆらぎだけが、
静かに景色を整えていた。

関連記事

PAGE TOP