Where Wonder Becomes Background
生きている、という事実は、
本来、もっとも情報量の多い出来事のはずだ。
心があり、
身体があり、
明日もこの命が続くと、
私たちは疑いなく信じている。
けれど、
そのことに、
ほとんど驚くことはない。
生きていること。
心があること。
世界がここにあり、
自分がその中にいること。
それらは、考えてみれば途方もなく不思議で、
取り扱いきれないほどの情報を含んでいるはずだ。
それでも私たちは、
そのすごさに立ち尽くすことなく、
今日も食べ、歩き、眠り、
生活を続けている。
なぜ、驚かないでいられるのか
もし、いちいち驚いていたら、
私たちは生きていけない。
食べるたびに驚き、
心が動くたびに立ち止まり、
生きているという事実に圧倒されていたら、
捕食され、取り残され、滅びていく。
生命は、
驚かないようにできている。
正確に言えば、
驚けなくなったのではなく、
驚きを前景から退かせ、
背景に沈めることで、
生き延びる仕組みを手に入れてきた。
予測したい生命、驚かねばならない生命
生命システムには、
明確な矛盾がある。
ひとつは、
変わりたくない、驚きたくない、という欲求だ。
すべてが予測でき、
安全な場所で、
食事が運ばれてくる世界。
それは、
生命にとって理想的な状態だ。
けれど同時に、
その世界は存在しない。
私たちは外に出なければならず、
情報を集め、
環境の変化に応答しなければ生きていけない。
つまり、驚かなければならない存在でもある。
変わりたくない。
でも、変わらなければ生きられない。
生命は、
その矛盾を抱えたまま、
今日まで続いてきた。
驚きは、消えたのではない
だから、
私たちが日常で驚かなくなったのは、
感受性が失われたからではない。
驚きは、
消えたのではなく、
沈んでいる。
生きるために、
いつでも取り出せる場所へ、
一時的に預けられている。
それは、
忘却というよりも、
保管に近い行為なのかもしれない。
よいものに触れる、という経験
ときどき、
私たちは「よいもの」に触れて、
はっとすることがある。
アートでも、
道具でも、
人でも、
風景でもかまわない。
一瞬、
何かが立ち上がる。
自分の中で、
時間や感覚がずれる。
けれどその驚きも、
いつまでも続くわけではない。
やがてそれは、
日常に溶け込み、
特別でなくなり、
意識されなくなっていく。
日常に沈んでいく、ということ
一度、驚いたものが、
日常に沈んでいく。
それは、
感動が薄れた、という話ではない。
むしろ、
驚きが、
生活を支える側に回った、
という感覚に近い。
生命が、
生きていることのすごさを、
背景に沈めてきたのと、
どこかよく似ている。
取り出す必要は、ないのかもしれない
生きているすごさ。
心があるという事実。
それらは、
常に感じ続けなくてもよいのだと思う。
世界のどこかに、
置いておけばいい。
必要なときに、
ふと触れ直せる場所に。
つながっている、という実感。
世界の中に自分がいる、という感覚。
それらが、
驚きを預かっているのかもしれない。
これは、
結論を出すための文章ではありません。
ただ、
驚きが沈んでいる場所を、
指差してみただけです。
生きていることのすごさは、
いつでも、
世界のどこかに在る。
私たちは、
それを常に持ち歩かなくても、
生きていけるのだと思います。
この文章は、実践側へ戻るための問いに続く。
➝ 驚きは、どこに戻っているか
驚きという感覚を含む、APLFの生命観全体については、
➝ 深層シリーズ──生命観の土壌をめぐる探究
