Choosing Not to Conclude
完成は、
目標ではなく、
ひとつの止まり方だった。
まだ続いているものは、
まだ途中ではなく、
ただ、
生きている。
この文章は、
何かを完成させるためのものではありません。
むしろ、
完成という概念が当てはまらなくなる場所。
設計図から始まっていない
APLFは、最初から完成形を思い描いて始めたものではない。
サイトも、記事も、体験も、順序立てて設計されたわけではなく、振り返ってみて、あとから一本の流れが見えてきた、という感覚に近い。
最初にあったのは、構想というより、違和感だった。
「こうすれば正しい」「この順でやればうまくいく」という説明に、どこか収まりきらないものを感じていた。
それでも、つくり始めてはいた。
書き、体験し、話し、反応を受け取り、また書く。
整っていないまま、手を動かし続けていた。
完成地点が引けなかった
一般的なプロジェクトやサービスづくりでは、最初に全体像を描き、要件を定め、そこに向かって実装していくことが多い。
いわゆる「完成」を前提にした進め方だ。
けれどAPLFには、そうした意味での完成地点がなかった。
「ここまでやれば終わり」というラインが、最初から引けなかった。
扱いたかったのは、ノウハウや手法だけではなく、
生きること、ただ在ること、感じること、考えること、選び続けること──
あまりにも射程が広かった。
抽象と具体を切り分けず、行き来し続けることを前提にすると、
最初に全体設計を描くこと自体ができなかった。
アジャイルに似ている、という感覚
振り返ってみると、進み方そのものは、ソフトウェア開発でいう「アジャイル」に近いところがある。
小さくつくり、出してみて、反応を受け取り、次を変える。
体験をきっかけに記事を書いたら、読んだ人が体験をもう一度振り返り始める。
たまたま出会った言葉や音楽が、そのまま記録として残る。
思い出した問いが、別の問いを呼び起こす。
狙って拾いに行ったものではない。
けれど、出会ったものを無視せず、相談し、試し、実装してきた。
選択というより、必然
ただし、APLFは典型的なアジャイルとも少し違う。
目指すゴールが固定されていない。
価値の定義そのものが、あとから立ち上がってくる。
完成させないという選択をした、というよりも、そうせざるを得なかった、という方が近い。
扱おうとしていたのが、「正解」や「成果」ではなく、生き方や在り方そのものだったからだ。
体験が先にあり、言葉が追いつく
APLFでは、しばしば順序が逆転する。
まず体験が起こり、あとから言葉が生まれる。
記事を読むことで、体験がもう一度起きる。
そして、その反応が、次の企画や問いに反映される。
本質を理解してから体験に向かうのではなく、
体験が、本質を呼び起こしている。
完成しないのは、
失敗ではない。
それは、
まだ関係が続いているということ。
変わり続けるものは、
途中ではなく、
ただ、
生きている。
