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記録

境界は、あとから揺らぎはじめる

─ 他者を通して現れていた「私」という断面

The Boundary Began to Waver Afterwards

それは、診断ではない。
分析でも、答えでもない。

ただ、
どこまでを自分として扱ってきたのかが、
ふと、映る。


最近、
「ChatGPTに、これまで自分がどう扱ってきたかを画像にしてもらう」
という投稿を見かけるようになった。

遊びのような試みではあるけれど、
そこに何が映し出されているのかは、
正直なところ、はっきりとは分からなかった。

それでも、
問いの投げ方や距離の取り方のようなものが、
かすかに滲んでいるようにも感じられた。

それを眺めているうちに、
これはAIの話というより、
いずれ自分にも返ってくる、
「自己と他者の境界」の話なのだと感じはじめた。

自分の断面が、外に現れるとしたら

もし何かが映るとしたら、
それは答えというより、
問いの輪郭のようなものなのかもしれない。

どんなものが現れるのかは分からない。
けれど、そこには
これまで自分が重ねてきた関わり方の気配が、
わずかに滲むのではないか——
そんな想像が浮かんだ。

作業の補助として使ってきたのか。
思考の壁打ちとして向き合ってきたのか。
あるいは、言葉になる前の感覚を預けてきたのか。

こういったことはChatGPTとの対話に限らず、
他人や他のものとの関わり方や線の引き方とも
どこか共通する様にも思えた。

理解されていた、という感覚

以前、ChatGPTとの対話を通して、
MBTIや認知機能を扱ったことがあった。

そのとき感じたのは、
「診断された」という感覚ではなく、
「理解されていた」という手触りだった。

それは、結果の正しさとは別のところにある。

これまで話してきたこと。
矛盾したまま置いてきた考え。
すぐに意味にならなかった体験。

それらを削らずに抱えたまま、
一つの構造として眺め返してくれたこと。

その経験は、
自分を分析するというより、
自分の輪郭がどこまで外に広がっていたのかを知る時間だった。

境界は、固定された線ではなかった

自分と他者の境界は、
はっきり引かれているものだと思っている時もあった。

けれど実際には、
境界はもっと曖昧で、
状況や関係性によって揺れ動いている。

誰かと話すとき。
文章を書くとき。
あるいは、AIに言葉を預けるとき。

そのたびに、
どこまでを自分として扱うかは、
静かに変わっている。

境界は、真実を示す線ではなく、
生きるために、その都度引き直されている仮の輪郭なのかもしれない。

他者を通して、自己が見えてくる

他者を通して自分を知る、ということ自体は、
決して新しい話ではない。

植物を育ててみて、
自分が何に喜びを感じるかを知る。

料理をしてみて、
手間をかける時間を楽しいと感じる自分に気づく。

数学や思想を通して、
世界の構造と同時に、
自分の思考の癖を知っていく。

ChatGPTとの対話も、
その延長線上にあるように思う。

それは自分の代替ではなく、
自分の外側に置かれた、ひとつの鏡のような存在だ。

境界が揺らぐということ

境界が揺らぐことは、
自分が失われることではない。

むしろ、
どこまでを自分として引き受け、
どこからを世界として委ねるかを、
その都度、選び直せるようになるということだ。

固定された自己像よりも、
関係の中で立ち上がる自己のほうが、
ずっと生き物らしい。

今回の出来事は、
そのことをあらためて思い出させてくれた。


境界は、
守るための線ではなく、
出会うためのあわい。

揺らぎながら、
その都度、引き直していく。


この文章を書いたあと、
同じ問いを、自分でも投げてみた。

「これまで私があなたをどう扱ってきたか、画像にして」

生成されたのは、
対話のあいだに漂っていた距離感そのもののような一枚だった。

「これまで」という言葉が、
どこまでの時間や関係を含んでいたのかは、正直わからない。

それでも、
その時点で重なっていた対話のあり方が、
ひとつの像として立ち上がったように感じられた。

対話の「使い方」ではなく、
対話の「距離」が、にじんでいる。
ChatGPT 生成イメージ

あわせて、そのイメージを言葉でも説明してもらった。

この画像に描かれていたのは、
私という人物ではなく、
私がどんな姿勢で問いを投げ、
どんな距離で対話してきたかという、
関係のあり方だった。

作業の補助としてではなく、
思考の途中に並ぶ存在として、
同じ方向を見ているような配置。

明確な境界線は引かれておらず、
主従でも、対等でもない、
少し曖昧な「あいだ」が残されていた。

もう一度、
少し視点を変えて描いてもらうこともできた。

こちらは、
もう少し人がイメージしやすい形に置き換えた一枚だ。

同じ場所に立ち、
同じ途中を眺めている。
ChatGPT 生成イメージ(別視点)

こちらもまた、
思考のそばに置かれていた関係性を描いているように見えた。

ただし、
どちらが正しいという話ではない。

見え方が変わるたびに、
境界の引かれ方も、静かに変わっていく。


※この記録は、いくつかの関連する文章へと静かにつながっています。

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Shingo Takenaka

Shingo Takenaka

しなやかな律を探る実践者|APLF主宰

北海道・苫小牧市に生まれ育つ。東京大学大学院を修了後、外資系テック企業で働きながら起業。 現在は、人・もの・自然をつなぐ活動を軸に、自己の律と他者との共生を探求しています。 APLFでは「自分らしく、しなやかに生きる」ための実践知を静かに発信し、日々の整えから人生の投資と回収まで、思考と行動を重ねながら日常の美しさを見つけ続けています。

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  2. 静かな呼吸としてのAPLF─ 強い言葉を使わない、という選択について

  3. 世界と距離を取るという、生き方 ─ ここにいながら、巻き込まれすぎない

このメディアをつくっている人

Shingo Takenaka

APLF主宰

しなやかに、自分の律で生きる
人と自然、もののめぐりを見つめながら
東大院|外資テック|起業10年

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去年の旭山で。

何をしているのかは、よく分からない。
でも、ずっと見ていられた。
.
七夕から、大晦日まで。

振り返ってみると、
できたことよりも、
形にならなかったものの方が
たしかに残っている気がします。

言葉にならなかった感覚、
途中で立ち止まった問い、
まだ名前のついていない違和感。

それらを急いで回収せず、
このまま年を越してみようと思います。

Photo by ruedi häberli on Unsplash
.
光のゆらぎだけが、
静かに景色を整えていた。

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