The Sense of Choice — How Much of Our Decisions Are Truly Ours
私たちは日々、選択をしている。
何を食べるか。
どこへ向かうか。
誰と関わるか。
人生は選択の連続だと、よく言われる。
けれど、その「選んでいる」という感覚は、
どこから生まれているのだろうか。
選択は、突然生まれるわけではない
何かを選ぶとき、
私たちは白紙の状態から決めているわけではない。
そこにはすでに、
好み、価値観、経験、恐れ、期待がある。
さらにその奥には、
育ってきた環境や、
これまでに触れてきた言葉や空気が折り重なっている。
選択は、瞬間的な意志の出来事ではなく、
長い時間の堆積の上で起こる。
選択の前提は、すでに置かれている
選ぶことができる選択肢は、
無限ではない。
目に入る情報。
アクセスできる場所。
声をかけられる関係性。
それらは、
自分の意志とは別のところで決まっていることが多い。
何を選ぶか以前に、
何が選択肢として現れるかが、すでに限定されている。
それでも、自由を感じている
ここまで見ると、
自由など存在しないように思えるかもしれない。
だが、私たちは確かに、
「自分で決めた」という感覚を持って生きている。
この感覚は錯覚なのだろうか。
そう単純には言えない。
なぜなら、
人は選択の結果だけでなく、
選ぼうとする過程そのものを生きているからだ。
選択とは、制御ではなく応答に近い
私たちの選択は、
世界を完全にコントロールする行為ではない。
むしろそれは、
すでに差し出されている状況に対する応答に近い。
出来事が起こり、
感情が動き、
身体が反応し、
そのあとで「選んだ」という言葉が立ち上がる。
選択は、主導というよりも、
関係の中で生まれる運動である。
自由は、どこに宿るのか
もし自由があるとすれば、
それは条件の外側にあるのではない。
条件を消し去った先に、
純粋な意志が存在するわけでもない。
自由は、
与えられた条件の中で、どう応答するかという姿勢に近い。
選べないことがあるからこそ、
選び方が問われる。
その微かな余白に、
人は自分らしさを感じている。
次章へ
選択の自由が完全ではないと知ることは、
無力感へ向かうためではない。
むしろそこから、
「どこまでを自分の責任として引き受けるのか」
という問いが立ち上がってくる。
次章では、
個人と世界のあいだにある境界──
引き受けられるものと、引き受けられないものについて見ていく。
深層シリーズ 第Ⅱ部 記事一覧
第Ⅱ部では、生命が立たされている
「世界の側」に、そっと視線を移していきます。
