Touching the Side Before Form
水右衛門 虓を訪れた夜のことが、
翌日も身体に静かに残っている。
写真は不可。
だから残るのは、記憶だけだった。
見た目は派手ではない。
皿の上に、強い主張はない。
けれど、香りがとても心地よかった。
料理が運ばれてくる前から、
ふっと空気が変わるような香りが立ち、
それだけで身体の感覚がひらいていく。
味もまた、同じだった。
強さはない。
分かりやすい旨みも、前に出てこない。
けれど、味が弱いということではない。
むしろ、きちんと美味しい。
控えめで、静かで、
もしかすると舌の状態を選ぶ料理なのかもしれない。
味そのものというより、
受け取る側の解像度によっても、
見える層が変わっていくようにも感じられた。
濃い味付けや、
旨みを重ねることに慣れていると、
その良さは分かりにくいかもしれない。
たとえば、ちょうど、
米の甘味が分からなくなっていくように。
甘さが無いわけではなく、
ただ、感じ取る側の感覚が
別の方向に引っ張られているだけ。
虓の料理は、
そうした感覚を、ゆっくりと元の位置に戻していく。
一品目に出てきたのは、
その日使う食材たちから取った、白湯のようなものだった。
出汁とも、スープとも言い切れない。
味を与えるというより、
これから起きる時間の“前”に立たされるような一杯。
料理人は、嫌いなものが多いという。
昆布や鰹の出汁を使わない。
バターも基本は嫌い。
牡蠣も苦手だと聞いた。
けれど、その「嫌い」とか「使わない」という選択は、
削るためではなく、
一点の密度を高めるためのように感じられた。
何でも使える世界より、
使えないものがはっきりしている世界のほうが、
残るものは深くなる。
料理が進むにつれて、
これは多くの言うならば“1側の料理”とは違う場所にある、
という感覚が強くなっていった。
分かりやすい美味しさ。
説明できる価値。
写真に残る完成形。
そうした光の側ではなく、
もう少し暗い、目立たない側に寄っている。
太陽より月というか。
けれどそれは、
否定や欠如の闇ではなかった。
まだ名づけられていないもの。
まだ決まっていない状態。
可能性が、ぎゅっと圧縮された場所。
ふと、イザナミのことを思い出した。
0は、無ではない。
何もないのではなく、
すべてを孕んだ手前の場所。
生の反対としての死ではなく、
生も死も、どちらも含んだ気配。
虓の料理には、
生命の味があった。
それは「生きている」という意味だけではなく、
死を含み、循環を含み、
なお次へと開かれている味だった。
完成された答えではなく、
生まれる直前の圧力のようなもの。
白湯が出る前、
佐藤慶が静かに、
「頑張りますので, お願いします」と言った。
正確な言葉は違っていたかもしれない。
けれど、その一言がなぜか強く残った。
成果を約束する言葉ではない。
美味しさを保証する言葉でもない。
ただ、いま自分ができることを尽くす、
という姿勢だけが、そこにあった。
その言葉は、
僕ら数人の客に向けられているようでいて、
同時に、彼自身や、そこにある食材、
その場の空気や、どうしようもない何かに
向けられているようにも感じられた。
料理は、
つくる側だけで完結するものではない。
受け取る側の状態によっても変わるし,
食材や器具、空気や気候、
そうした人の手を越えた要素にも
大きく左右されてしまう。
どれだけ整えても、
どうにもならない領域が、確かにある。
だからこそ「頑張ります」という言葉が、
とても誠実に響いた。
結果を支配しようとしない。
けれど、引き受けることからは逃げない。
その立ち方そのものが、
この夜の始まりだったように思う。
写真が撮れないことも、あとから腑に落ちた。
記録に残さなくていい。
見せるために味わわなくていい。
その時間は、
その場にいた自分の身体だけで完結してよかった。
便利な時代になり、
見ること、共有すること、
行った気になることに、慣れすぎることも多い。
けれど, 行けるなら、
やはり実際に行った方がいい。
自分の目で。
自分の身体で。
虓の料理は、
美味しさを語るための体験というより、
感覚の向きが静かにずれる出来事だった。
翌日、持ち帰ったカヌレを開けたとき、
そこにも同じ姿勢が残っていた。
