しなやかに、自分の律で生きるための実践知メディア

深層Ⅱ

世界と距離を取るという、生き方

─ ここにいながら、巻き込まれすぎない

A Way of Living with Distance

第Ⅱ部では、
生命そのものではなく、
生命が置かれている世界の配置を見つめてきた。

意図のない構造。
効率という価値。
均等ではない地面。
その中で揺れていた、選択や責任の輪郭。

それらを辿るうちに、
ひとつの問いが、静かに残り続けていた。

世界と、どれほど近づいて生きるのか。

世界とどう関わるか、という問いの奥には、
どれほど近づくのか、という問いがひそんでいる。

関わることは大切だ。
つながることも、応答することも、
生きるうえで欠かせない。

けれど同時に、
近づきすぎることで失われるものもある。

戦うでも、逃げるでもない

世界が苦しく感じられるとき、
私たちはしばしば二つの選択肢のあいだに立たされる。

抗うか。
離れるか。

どちらも必要な場面はある。
だが、どちらにも収まらない関わり方が、
確かに存在している。

それは、距離を取るという態度である。

距離は、断絶ではない

距離を取るというと、
冷たさや無関心のように受け取られることがある。

しかし、本来の距離は、
関係を断つためのものではない。

むしろ、関係を保つための空間に近い。

近すぎれば、
相手の輪郭も、自分の輪郭も溶けてしまう。

少し離れることで、
はじめて見える線や、呼吸できる余白が生まれる。

ここにいながら、向きを変える

距離を取るという生き方は、
場所を変えることだけを意味しない。

同じ環境にいながら、
同じ社会に属しながら、
向きだけを少し変えることもできる。

世界の中心に身を置かなくても、
周縁からでも、十分に生きることはできる。

主流に同化しなくても、
関係を失うわけではない。

巻き込まれすぎないという知恵

情報。
期待。
評価。
正しさ。

それらは常に、
私たちを内側へ引き寄せようとする。

すべてに応答し続けることは、
生きているようでいて、
消耗でもある。

距離を取るとは、
応答しない自由を持つことでもある。

沈黙すること。
立ち止まること。
すぐに結論を出さないこと。

それらもまた、
世界とのひとつの関係のかたちだ。

静かな位置に立つ

世界を変えようとしなくてもいい。
世界から降りる必要もない。

ただ、どこに立つかを選ぶことはできる。

騒がしさの中心から、少しだけ離れた場所。
声が届きすぎない距離。
自分の呼吸が聞こえる位置。

そこから世界を見ると、
同じ出来事でも、別の表情が立ち上がってくる。

おわりに

距離を取るという生き方は、
何かを拒むためのものではない。

自分が消えないための、
ひとつの知恵である。

近づきすぎず、
離れすぎず。

そのあいだに生まれる余白の中で、
私たちは再び、世界と出会い直すことができる。

日常に、ひとつのきっかけを
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日常の小さな選択や行動の中に、
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「大人の遊びかた研究室」では、
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Shingo Takenaka

Shingo Takenaka

しなやかな律を探る実践者|APLF主宰

北海道・苫小牧市に生まれ育つ。東京大学大学院を修了後、外資系テック企業で働きながら起業。 現在は、人・もの・自然をつなぐ活動を軸に、自己の律と他者との共生を探求しています。 APLFでは「自分らしく、しなやかに生きる」ための実践知を静かに発信し、日々の整えから人生の投資と回収まで、思考と行動を重ねながら日常の美しさを見つけ続けています。

  1. 0の側に触れた夜— 向きが変わっていたことについての記録

  2. 静かな呼吸としてのAPLF─ 強い言葉を使わない、という選択について

  3. 世界と距離を取るという、生き方 ─ ここにいながら、巻き込まれすぎない

このメディアをつくっている人

Shingo Takenaka

APLF主宰

しなやかに、自分の律で生きる
人と自然、もののめぐりを見つめながら
東大院|外資テック|起業10年

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去年の旭山で。

何をしているのかは、よく分からない。
でも、ずっと見ていられた。
.
光の向きで、部屋の表情が変わる。
ゆっくりと火の季節になってきた。
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ひとりで歩く夜でも、
どこかで誰かとつながっている気がする。

看板の灯りや、店に流れる小さな気配が、
そっとこちらの歩幅を整えてくれる。

この街の夜にも、静かなやさしさがある。

日々、誰かや何かとの出会いがあって、
それが過剰な意味を持たなくてもいい。
気負いすぎず、気負わなすぎず、
ただ今日を歩いていけばいい。
.
失われていくものには、静かな美しさがある。

街も、人も、建物も、生きているように変わっていく。
生まれ、育ち、そして少しずつ朽ちていく。

その流れは止められない。
だからこそ、心が動くのだと思う。

かつて誰かが暮らし、笑い、
生活の音があったはずの場所に立つと、
そこに残る “気配” に触れることがある。

完全には戻らないもの。
もう取り戻せない時間。

その不可逆さが、優しさや懐かしさを生む。

失われるからこそ、
大切にしようと思えるし、
誰かに優しくなれたり、
いまを丁寧に味わえるようになったりする。

衰えることは、ただのマイナスではない。
そこから新しい命や文化が生まれ、
誰かが受け継ぎ、形を変えながら残っていく。

すべてが永遠に続く世界より、
終わりがある世界のほうが、きっと美しい。

生命も、街も、建物も、
変わっていくことで息をしている。

その無常を抱きしめながら、
今日をちゃんと生きていきたい。

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