At the Verge Where Calculation Fails
見えていると思っていたものは、
いつも、
ずれているところだった。
変わらないものは、
目に入らず、
そこに在り続けるものほど、
気づかれない。
この文章は、
世界の仕組みを説明するためのものではありません。
ただ、
物事を考えるとき、
思考がどこから立ち上がっているのか。
その「縁」を、
そのまま置いてみようと思います。
思考の癖としての情報工学
昔から、人の行動や世界の動きを、
どこか計算機の構造で見てしまう癖があった。
特別に意識してそうしてきたわけではない。
ただ、物事を考えるとき、
「何が入力で、どこで演算され、何が出力として現れているのか」
という枠組みが、自然と頭に浮かんでくる。
日本語で考えるときがあり、
ときに、英語で考えるときがあるように、
僕にとって情報工学や計算機工学は、
世界を理解するためのひとつの思考言語だったのだと思う。
だから、人の会話や関係性を見ていても、
感情や性格より先に、
「どんな入力が与えられているのか」
「どこで処理が起きていそうか」
そんなことを考えてしまうことが多かった。
入力装置、演算装置、出力装置。
その三つの関係で、人や世界を見てしまう。
それは、世界を単純化したいからではない。
むしろ逆で、
複雑すぎるものを、そのまま扱うための視点だった。
理論として正しいかどうかは、
正直あまり重要ではなかった。
その見方をすると、
世界が少し腑に落ちる。
それだけで、十分だった。
チューリングマシンと「外部から与えられるもの」
計算機の構造で世界を見てしまう癖は、
自然とチューリングマシンの考え方にもつながっていった。
チューリングマシンは、とても単純な装置だ。
決められた規則に従って、
記号を読み、書き換え、次の状態へ進む。
そこには意味も意図もない。
ただ、形式だけがある。
それなのに、その単純なモデルが、
現代の計算機の原型になっている。
少し不思議でもあるし、
どこか納得もできる。
チューリングマシンが扱えるのは、
あくまで内部で完結する計算だけだ。
問いそのものや、
「何を知りたいのか」という動機は、
必ず外から与えられる。
その外部からの答えを、
便宜的に「オラクル」と呼ぶ。
神の啓示、などと訳されることもあるが、
それは宗教的な意味というより、
内部では決して生成できないものを指す言葉だ。
この構造を知ったとき、
妙に腑に落ちた感覚があった。
計算機は、自分では何も決めない。
どんな入力を与えるか、
どの結果を意味あるものとして受け取るか。
それは、常に外部に委ねられている。
スマートフォンも同じだ。
原理的には、チューリングマシンの延長にすぎない。
けれど、
どのアプリを開くか、
何を検索するか、
どこで画面を閉じるか。
その「意味」を与えているのは、
いつも人間の側だ。
考えてみれば、
人はしばしば
「機械に使われている」と感じる。
けれど構造だけを見れば、
人はずっとオラクルの役割を担っている。
計算は、内部だけでは完結しない。
世界は、
必ずどこかで外部と接続している。
その前提が、
このあと考えたい話とも、
静かにつながっていく。
僕らは差分でしか世界を見ていない
少し話題がずれるようだが、
このあたりで、もう一つ思い出すことがある。
僕らは、
世界をそのまま見ているようでいて、
実は差分でしか物事を認識していない。
完全に静止しているものは、
本来、見えないはずだ。
それでも僕らが世界を「見えている」と感じているのは、
眼球がごく微細に動き続けているからだと聞いたことがある。
意識できないほどの小さな揺れ。
その揺れによって、
ほんのわずかな変化が生まれ、
はじめて像として立ち上がる。
つまり、
僕らが見ているのは
「そこに在るもの」そのものではなく、
変化した部分、
ズレや揺らぎのほうだ。
この話を聞いたとき、
不思議と、先ほどのチューリングマシンの構造が
頭の中で重なった。
計算も、
状態が変わらなければ進まない。
同じ状態が続く限り、
そこでは何も起きていないのと同じだ。
人の知覚も、
世界の理解も、
どこかそれに似ている。
変わらないものは見えず、
変わったところだけが、
情報として立ち上がる。
僕らは、
存在を見ているつもりで、
ずっと差分を追いかけているのかもしれない。
見えない神、という仮説
差分でしか世界を認識できない、
という話を聞いたとき、
もう一つ、頭に浮かんだことがあった。
もし、
完全に変化しないものがあったとしたら、
僕らはそれを認識できるのだろうか。
差分がなければ、
情報は立ち上がらない。
変化しなければ、
像は浮かび上がらない。
だとしたら、
常にそこに在り続けるものは、
原理的に「見えない」のではないか。
神が見えないのは、
遠いからでも、
特別だからでもないのかもしれない。
それは、
僕らがもともと持っているものと、
完全に一致しているから。
ズレがないから。
差分が生まれないから。
そう考えると、
神を探し続ける人の姿も、
どこか納得がいく。
探している限り、
そこには差分がある。
差分がある限り、
それは「神そのもの」ではない。
もちろん、
これは証明できる話ではない。
ただ、
そう考えると腑に落ちる、
というだけの話だ。
八百万の神と、エッジに立ち上がるもの
日本には、八百万の神という考え方がある。
それは、
どこかに絶対的な存在がいて、
世界を上から見下ろしている、
という話ではない。
山や川、風や火、
人と人のあいだ、
出来事の節目や、場の空気。
そうした関係の中に、
何かが立ち上がる。
それを、人は神と呼んできた。
固定された実体というより、
点と点のあいだ。
ノードとノードを結ぶ、
エッジのようなもの。
そこには、
常に揺れがあり、
差分があり、
同じ形では二度と現れない。
完全に一致してしまえば、
それは見えなくなる。
けれど、
わずかなズレや、
関係の変化が生まれたとき、
何かが「いるように感じられる」。
神とは、
見える存在というより、
立ち上がってしまう感覚に近いのかもしれない。
チューリングマシンに、
内部だけでは決して生成できないものがあるように。
人の知覚が、
差分なしには世界を捉えられないように。
意味は、
いつも境界で生まれる。
内部と外部のあいだ。
自己と他者のあいだ。
出来事と出来事の縁。
APLFで言ってきた
断面、往復、つながり、という言葉も、
すべてこの場所を指している。
世界は、
完全に決まっているのかもしれない。
それでも僕らは、
選んでいるように感じ、
考えているように感じ、
生きているように感じている。
その「感じ」から、
外に出ることはできない。
けれど、
だからこそ、
信じることや、
生きることが、
面白くなる。
神が見えないのは、
不在だからではない。
それは、
すでにそこに在るからかもしれない。
計算できないものは、
計算の外にあるのではなく、
いつも、
その縁に立っている。
