しなやかに、自分の律で生きるための実践知メディア

深層の縁

想像は、どこから立ち上がるのか

Where Imagination Rises From

「想像する」と言うけれど、
実際には、僕らは何もないところから想像しているわけではない。

見たことのないもの、
聞いたことのないもの、
触れたことのない世界を、
完全にゼロから思い描くことはできない。

父の背中。
祖父の昔話。
師匠の所作。
ライバルの振る舞い。
あるいは、本や映画、歴史小説や物語。

僕らの想像は、
そうした見聞きした断片の上に、
静かに積み上がっている。

もちろん、
いままで存在しなかったものが生まれることもある。

ただ、それも突然の飛躍というより、
そこに至るだけの理由や経路があったのだと思う。

何かが引き金になり、
何かが材料になり、
複数の線が、ある瞬間に結び直される。

それを、
創造性とか、想像力と呼んでいるのかもしれない。

そう考えると、
創造とは、
まず何かを受け取り、
それを真似るところから始まっているように思える。

意図してか、無意識かにかかわらず、
模倣を通してしか、
自分の振る舞いやアイデアは、
立ち上がらないように見える。

守破離という考え方も、
そのことを、昔から言い続けてきたのだろう。

離に至るためには、まず守がある。
型を受け取り、
繰り返し、
身体に通す。

古武術研究家の甲野善紀さんの話を、
何度か聞きに行ったことがある。

甲野さんは、
「体験しない動きは、できない」と言う。

まず受けないと、
自分の中で再現できない。
一度できてしまえば、
あとは驚くほど簡単になる、と。

その話を聞いたとき、
自転車や一輪車のことを思い出した。

乗れないときには、
どうやってバランスを取っているのか、
想像すらつかない。

ある程度イメージできても、
身体はまったく言うことを聞かない。

けれど、
一度乗れてしまえば、
「なぜできなかったのか」が分からなくなるほど、
自然な動きになる。

英語も、似ている。

自分で話せない表現は、
聞き取れない。

どんなに簡単な中学生レベルの英語でも、
ネイティブが話した瞬間、
音として認識できなくなる。

速さの問題もあるし、
省略の仕方を知らないというのもある。

けれど、
自分が話せるように練習していると、
次に聞いたとき、
突然、言葉として立ち上がってくる。

理解は、
知識よりも、
身体の通過回数に近い。

通過回数というのは、
量だけの話ではない。

何を通過してきたかという質。
どれだけ通過してきたかという量。
そして、どこへ向かおうとしているかという、
おおまかな向き。

正確なゴールや、
明確なロードマップがなくてもいい。
ただ、
どちらの方角を向いているかくらいは、
身体は案外、覚えている。

とにかく動き、
経験を重ねていくと、
引き出しは増えていく。

けれど同時に、
余計な荷物は、少しずつ手放されていく。

知識や肩書きよりも、
「一度通ったことがある」という感覚だけが残る。

それが、
不思議な安心感を生み、
余裕になり、
いつの間にか、信頼にもつながっていく。

発明や表現も、
きっと同じだ。

失敗かどうかも分からない試行を、
ただ数多く通過しているうちに、
よく分からないものを、
うっかりやってしまう。

そこから、
何かが生まれることがある。

狙って生まれるというより、
起きてしまう、という感じに近い。

手元にあるとある本の冒頭には、
この世界には、
どうしようもない流れがある、
というようなことが書かれていた気がする。

半ばあきらめているようで、
それでも、
突然変異のようなものは起きる。

あきらめと希望を、
同時に抱えているような、
そんな態度。

制限されていたからこそ、
生まれたものがある。
残ってきたものがある。

狭かったから、
余白があった。

しゃがまないと、
高く跳べないように。

何かを通過し、
一度沈み、
その反動で、
思いがけない方向へ跳ねる。

そして想像もまた、
何もないところから生まれるのではなく、
通過してきたものの上に、
ふと、立ち上がってくるものなのだと思う。

日常に、ひとつのきっかけを
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日常の小さな選択や行動の中に、
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「大人の遊びかた研究室」では、
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Shingo Takenaka

Shingo Takenaka

しなやかな律を探る実践者|APLF主宰

北海道・苫小牧市に生まれ育つ。東京大学大学院を修了後、外資系テック企業で働きながら起業。 現在は、人・もの・自然をつなぐ活動を軸に、自己の律と他者との共生を探求しています。 APLFでは「自分らしく、しなやかに生きる」ための実践知を静かに発信し、日々の整えから人生の投資と回収まで、思考と行動を重ねながら日常の美しさを見つけ続けています。

  1. 0の側に触れた夜— 向きが変わっていたことについての記録

  2. 静かな呼吸としてのAPLF─ 強い言葉を使わない、という選択について

  3. 世界と距離を取るという、生き方 ─ ここにいながら、巻き込まれすぎない

このメディアをつくっている人

Shingo Takenaka

APLF主宰

しなやかに、自分の律で生きる
人と自然、もののめぐりを見つめながら
東大院|外資テック|起業10年

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去年の旭山で。

何をしているのかは、よく分からない。
でも、ずっと見ていられた。
.
光の向きで、部屋の表情が変わる。
ゆっくりと火の季節になってきた。
.
ひとりで歩く夜でも、
どこかで誰かとつながっている気がする。

看板の灯りや、店に流れる小さな気配が、
そっとこちらの歩幅を整えてくれる。

この街の夜にも、静かなやさしさがある。

日々、誰かや何かとの出会いがあって、
それが過剰な意味を持たなくてもいい。
気負いすぎず、気負わなすぎず、
ただ今日を歩いていけばいい。
.
失われていくものには、静かな美しさがある。

街も、人も、建物も、生きているように変わっていく。
生まれ、育ち、そして少しずつ朽ちていく。

その流れは止められない。
だからこそ、心が動くのだと思う。

かつて誰かが暮らし、笑い、
生活の音があったはずの場所に立つと、
そこに残る “気配” に触れることがある。

完全には戻らないもの。
もう取り戻せない時間。

その不可逆さが、優しさや懐かしさを生む。

失われるからこそ、
大切にしようと思えるし、
誰かに優しくなれたり、
いまを丁寧に味わえるようになったりする。

衰えることは、ただのマイナスではない。
そこから新しい命や文化が生まれ、
誰かが受け継ぎ、形を変えながら残っていく。

すべてが永遠に続く世界より、
終わりがある世界のほうが、きっと美しい。

生命も、街も、建物も、
変わっていくことで息をしている。

その無常を抱きしめながら、
今日をちゃんと生きていきたい。

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