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外縁

ここにいる感じについて

—— 仮想かもしれない世界で、触れているもの

A Sense of Being Here

眠っているあいだに、夢を見る。

目が覚めれば、それは夢だったとわかる。
けれど、その感触がすぐに消えるとは限らない。

現実と呼んでいるこの世界も、
どこかで似たような成り立ちをしているのではないか。

そんなことを、ふと考える瞬間がある。

私たちは、現実の中に生きている。
少なくとも、そう信じている。

夢、記憶、映画、物語、音楽。
それらに触れたとき、
私たちは確かに「ここではないどこか」にいる。

けれど、その体験は、
現実よりも薄いと言い切れるだろうか。

目を覚ましたあとも残る感触。
何年も忘れていたはずなのに、
ある瞬間に、はっきりとよみがえる記憶。

私たちは本当に、
どこからどこまでを「現実」と呼んでいるのだろう。


先日、眠っているあいだに、ひとつの夢を見た。

世界が変わっていた。
いまが何年なのかも、はっきりしない。

先輩たちは、そのことを知っているはずなのに、
どこかで忘れてしまったらしい。
年号だけでなく、
それ以外のいろいろなものも、
失われているように感じられた。

「令和七年から来た」と伝えると、
ああ、そうだった、と言われた。

その一年のあいだに、
何もかもが変わってしまったのだという。

仕事場に案内すると言われ、
知らない人に連れられていきそうになった。

そのとき、
近くにいた、知っている会社のメンバーたちが、
そっちはやめておけ、と声をかけてくれた。

連れ戻される、というより、
こちらに引き戻される、
そんな感じだった。

しばらくして、
二人の女性が訪ねてきた。

顔を見て、
そのうちの一人が知り合いだと分かった。

知り合いに会えること。
その人が誰かだと、
ちゃんと認識できること。

それが難しくなっている世界の中で、
私とその人が知り合いだという事実を
確認できたことを、
もう一人の女性が、とても喜んだ。

そこで、目が覚めた。

夢だった。

そう分かっている。

けれど、
夢の中で感じていた安心や、
認識できたという感触は、
しばらく消えなかった。


夢も、仮想世界だと言える。

けれど、
いま見ているこの世界も、
仮想だと言われたら、
完全には否定できない気がする。

それでも私たちは、
現実のほうに、
たしかに「いるような感じ」を持っている。

夢は夢だと知っている。

——少なくとも、
そう知った気になっている。

日本語の「夢」は、
もともと、夜に見るものを指していた。

将来に思い描くものを
「夢」と呼ぶようになったのは、
英語の Dream の影響だと聞いたことがある。

夜に見る夢と、
叶えたい未来の夢。

どちらも、
いまこの瞬間には存在していない。

それでも、
どちらも現実に影響を与える。

もしかすると、
夜に見ている夢のほうが、
いまこの瞬間に近い分だけ、
より現実的なのかもしれない。

あるいは、
現実そのものが、
仮想をはらんでいるのかもしれない。

そう考え出すと、
どこまでが現実で、
どこからが仮想なのか、
よく分からなくなってくる。

分かったような気もするし、
何も分かっていない気もする。


数年前、
運転中に、飛び出してきた車と衝突したことがある。

大きな事故ではなかったが、
しびれや、
むちうちのような痛みが残り、
しばらく病院に通った。

痛みを感じる。

知人にその話をすると、
「生きている証ですよ」と言われた。

たしかに、
生きている、
そんな感じがした。

記憶も、曖昧だ。

数年前に亡くなった祖母の葬儀で、
何十年ぶりかに親戚に会った。

顔を見て、
名前を聞いて、
たしかに知っている人たちだと思い出す。

何十年も前、
同じ場所に、
同じ世界があった。

そう感じる。

それが本当にあったのか、
ただそう感じているだけなのかは、
分からない。

けれど、
思い出したという事実だけは、
たしかに残る。

三十年以上前に聞いた音楽を、
ある日ふと耳にして、
はっきりと思い出すことがある。

忘れていたのではなく、
思い出していなかっただけなのだ、
と感じる瞬間がある。

仮想かもしれない。
現実かもしれない。

その区別がつかないままでも、
痛みや、
再会や、
音楽や、
記憶は、
たしかにこちらに触れてくる。

私たちは、
完全に確かな世界の中で
生きているわけではないのかもしれない。

それでも、
たしかに「ここにいる」という感じだけは、
消えずに残っている。


夢や記憶だけが、
仮想と現実の境目を曖昧にしているわけではない。

映画を観ているとき。
物語に没頭しているとき。
音楽に包まれているとき。

私たちは確かに、
いまここではない場所にいる。

それでも、
その体験は、
現実より薄いとは言い切れない。

テーマパークの中を歩いているとき、
そこが作られた世界だと分かっていても、
感情は素直に動く。

驚いたり、
楽しんだり、
少し切なくなったりする。

その感覚は、
本物だ。


オンラインの空間でも、
似たことが起きる。

画面の向こうにいるのは、
実体のない文字や映像のはずなのに、
そこには、人の温度がある。

深夜でも、
誰かが起きていて、
会話が続く。

言葉を書けば、
それを受け取って、
喜んだり、
反応したりする人がいる。

仮想だと分かっていても、
そのやりとりは、
とても現実的だ。

近年は、
VRやメタバースといった言葉も増えた。

けれど、
世界が急に仮想になったわけではない。

私たちはずっと前から、
仮想と現実が混ざり合った場所で、
生きてきたのかもしれない。


そして、
その中で、
私たちはいくつもの役割を生きている。

気づいて演じていることもあれば、
気づかないまま、
そう振る舞っていることもある。

他人から見える私と、
自分が感じている私が、
ぴたりと重なることは、
ほとんどない。

男であること。
女であること。
大人であること。
子どもであること。

学生であること。
社会人であること。
親であること。
子であること。

それらはすべて、
必要に応じて、
引き受けている役割のようにも見える。

それが仮想なのか、
本当の自分なのかは、
よく分からない。

けれど、
どちらか一方だけで
生きているとも、
言い切れない。

人だけが、
そうしているわけではないのかもしれない。

動物も、
植物も、
ものや場所も、
それぞれの位置で、
何かを担っているように見える。

それが演じているのか、
ただそう在るだけなのかは、
分からない。

リアルとバーチャル。
本当と演技。

その境界は、
思っているより、
ずっと曖昧だ。

それでも、
ここにいるという感じだけは、
今日も、
確かに残っている。


現実かどうかは、
分からないままでいい。

仮想かもしれない世界で、
笑ったり、
痛んだり、
思い出したりする。

その一つひとつが、
たしかにこちらに触れている。

役割を演じながら、
それでも、
ここにいるという感じだけは、
手放さずにいる。

それが現実なのか、
そう呼んでいるだけなのかは、
分からない。

ただ、
今日も世界は、
触れられる距離にある。

この文章は『外縁』に置かれています。
外縁 —— Being Here

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Shingo Takenaka

Shingo Takenaka

しなやかな律を探る実践者|APLF主宰

北海道・苫小牧市に生まれ育つ。東京大学大学院を修了後、外資系テック企業で働きながら起業。 現在は、人・もの・自然をつなぐ活動を軸に、自己の律と他者との共生を探求しています。 APLFでは「自分らしく、しなやかに生きる」ための実践知を静かに発信し、日々の整えから人生の投資と回収まで、思考と行動を重ねながら日常の美しさを見つけ続けています。

  1. 0の側に触れた夜— 向きが変わっていたことについての記録

  2. 静かな呼吸としてのAPLF─ 強い言葉を使わない、という選択について

  3. 世界と距離を取るという、生き方 ─ ここにいながら、巻き込まれすぎない

このメディアをつくっている人

Shingo Takenaka

APLF主宰

しなやかに、自分の律で生きる
人と自然、もののめぐりを見つめながら
東大院|外資テック|起業10年

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光のゆらぎだけが、
静かに景色を整えていた。
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七夕から、大晦日まで。

振り返ってみると、
できたことよりも、
形にならなかったものの方が
たしかに残っている気がします。

言葉にならなかった感覚、
途中で立ち止まった問い、
まだ名前のついていない違和感。

それらを急いで回収せず、
このまま年を越してみようと思います。

Photo by ruedi häberli on Unsplash
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海に来ると、
言葉が一度、ほどける。
.
光の向きで、部屋の表情が変わる。
ゆっくりと火の季節になってきた。

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