しなやかに、自分の律で生きるための実践知メディア

外縁

どこまでが、自分なのか

Where Does the Boundary of Self Lie

外縁|星の光が届いているあいだに(03)

どこまでを自分と呼んでいるのか。
あまり考えずに生きている。

考えていない、というより、
分かりきったことだと思っている人も多いのかもしれない。

身体の内側か。
記憶までか。
遺伝や、育った環境は含まれるのか。

線を引こうとすれば、いくらでも引ける。
けれど、その線がどこにあるのかを、
はっきり意識して暮らしているわけでもない。


最近、ふと思ったことがある。

こうして言葉を相談し、
返ってきた言葉を受け取り、
整え直してもらった文章。

それは、どこまでが自分の言葉なのだろうか。

外に置いた以上、
自分の言葉だと言っていいのかもしれない。
けれど、そもそも、
相談せずに放った言葉は、
本当に自分のものなのだろうか。

言葉だけではない。
ふるまいも、判断も、
存在そのものも、
どこからが自分なのか、怪しくなってくる。

日常を見渡すと、
自分の意志より先に立ち上がっているものが多い。

習慣や癖は、
考える前に身体を動かす。

場所が変わると、
自然に態度が変わる。

使っている道具や、
身を置いている環境が、
判断を代行していることもある。

「自分で決めている」と思っていることの多くが、
すでに決められているようにも見える。


では、身体はどこまで閉じているのだろうか。

皮膚で区切れるのか。
呼吸は、どこまでが自分なのか。

食べ物や空気は、
一度体に入れば自分になるのか。
それとも、通過しているだけなのか。

体内と言ったとき、
胃や腸の中も含めて想像している人は多い。

けれど、人は筒状の構造をしていて、
口から肛門までの道は、
外側だとも言える。

皮膚の内側には、
細菌や微生物、
ミトコンドリアたちがいて、
そこにはひとつの宇宙がある。

一枚の境界の内と外で、
世界は連続している。


人間だけが、
ここまで細かく「自分」を切り出しているのかもしれない。

動物や植物は、
どこまでを自分だと感じているのだろう。

虫や植物の世界を見ていると、
主体と客体を分ける感覚そのものが、
人間特有のもののようにも思えてくる。

宇宙のスケールのあとに、
小さな生き物を見ると、
同じ世界なのに、
まったく違って見える。

大きい、小さい、ではない。
人間の尺度から外れる、という感覚に近い。

それでも、人は線を引かずにいられない。

名前をつける。
「私」と言う。
責任を引き受ける。

境界は、
真実ではないかもしれない。

けれど、
生活のためには必要だ。

境界は、
正しいかどうかの問題ではなく、
どう生きるかのために引かれている。


人は、育つ過程で線を引いていく。

それは、分かってくるということでもあり、
同時に、可能性を捨てていくことでもある。

役割を与えられた立場より、
何者でもない状態のほうが、
強いエネルギーを持つこともある。

線を引きつつ、
線を取り払う。

何も持たなくていい。
必要なものは、
いつでもここにあって、
いつでも取り出せる。

線に依存しない。
常にニュートラルに戻れる。

それが、
大人になるということなのかもしれない。

どこまでが人なのかは、
決めきれない。

けれど、
狭く決めすぎている気もしている。

自分ではないとは言えない領域が、
確かに存在している。

それを、
完全に自分に回収しない。
しかし、切り捨てもしない。

境界を引いたまま、
その外側も感じ続ける。

この文章は『外縁』に置かれています。
外縁 —— Being Here

なにか残るものがあれば、
ことばにしてみてもいいかもしれません。

Shingo Takenaka

しなやかな律を探る実践者|APLF主宰

北海道・苫小牧生まれ。東京大学大学院修了後、外資系テック企業で働きながら起業。
人・もの・自然をつなぐ活動を軸に、自己の律と他者との共生を探っています。
APLFを通して思考と行動を重ねながら、日常の中にある価値や美しさを見つめ続けています。

.
去年の旭山で。

何をしているのかは、よく分からない。
でも、ずっと見ていられた。
.

流れの中にいた、というより、
あとから、そう見えてくる。
.

それぞれがいて
ときどき重なる

——
@hatsu_hinodeya
PAGE TOP