Where Does the Boundary of Self Lie
どこまでを自分と呼んでいるのか。
あまり考えずに生きている。
考えていない、というより、
分かりきったことだと思っている人も多いのかもしれない。
身体の内側か。
記憶までか。
遺伝や、育った環境は含まれるのか。
線を引こうとすれば、いくらでも引ける。
けれど、その線がどこにあるのかを、
はっきり意識して暮らしているわけでもない。
最近、ふと思ったことがある。
こうして言葉を相談し、
返ってきた言葉を受け取り、
整え直してもらった文章。
それは、どこまでが自分の言葉なのだろうか。
外に置いた以上、
自分の言葉だと言っていいのかもしれない。
けれど、そもそも、
相談せずに放った言葉は、
本当に自分のものなのだろうか。
言葉だけではない。
ふるまいも、判断も、
存在そのものも、
どこからが自分なのか、怪しくなってくる。
日常を見渡すと、
自分の意志より先に立ち上がっているものが多い。
習慣や癖は、
考える前に身体を動かす。
場所が変わると、
自然に態度が変わる。
使っている道具や、
身を置いている環境が、
判断を代行していることもある。
「自分で決めている」と思っていることの多くが、
すでに決められているようにも見える。
では、身体はどこまで閉じているのだろうか。
皮膚で区切れるのか。
呼吸は、どこまでが自分なのか。
食べ物や空気は、
一度体に入れば自分になるのか。
それとも、通過しているだけなのか。
体内と言ったとき、
胃や腸の中も含めて想像している人は多い。
けれど、人は筒状の構造をしていて、
口から肛門までの道は、
外側だとも言える。
皮膚の内側には、
細菌や微生物、
ミトコンドリアたちがいて、
そこにはひとつの宇宙がある。
一枚の境界の内と外で、
世界は連続している。
人間だけが、
ここまで細かく「自分」を切り出しているのかもしれない。
動物や植物は、
どこまでを自分だと感じているのだろう。
虫や植物の世界を見ていると、
主体と客体を分ける感覚そのものが、
人間特有のもののようにも思えてくる。
宇宙のスケールのあとに、
小さな生き物を見ると、
同じ世界なのに、
まったく違って見える。
大きい、小さい、ではない。
人間の尺度から外れる、という感覚に近い。
それでも、人は線を引かずにいられない。
名前をつける。
「私」と言う。
責任を引き受ける。
境界は、
真実ではないかもしれない。
けれど、
生活のためには必要だ。
境界は、
正しいかどうかの問題ではなく、
どう生きるかのために引かれている。
人は、育つ過程で線を引いていく。
それは、分かってくるということでもあり、
同時に、可能性を捨てていくことでもある。
役割を与えられた立場より、
何者でもない状態のほうが、
強いエネルギーを持つこともある。
線を引きつつ、
線を取り払う。
何も持たなくていい。
必要なものは、
いつでもここにあって、
いつでも取り出せる。
線に依存しない。
常にニュートラルに戻れる。
それが、
大人になるということなのかもしれない。
どこまでが人なのかは、
決めきれない。
けれど、
狭く決めすぎている気もしている。
自分ではないとは言えない領域が、
確かに存在している。
それを、
完全に自分に回収しない。
しかし、切り捨てもしない。
境界を引いたまま、
その外側も感じ続ける。
この文章は『外縁』に置かれています。
外縁 —— Being Here
