しなやかに、自分の律で生きるための実践知メディア

驚き

奇跡の上に、何気ない日々がある

奇跡は、
驚くためにあるのではなく、
その上に、
日常を置くためにある。

もし毎回、
立ち止まってしまうのだとしたら、
きっと歩けなくなってしまう。


生きているということ自体が、
考えてみれば、
ものすごい確率の積み重ねなのだと思います。

心臓が動いていること。
人が歩いていること。
ふたりで並んで道を歩いていること。

どれも、よく考えれば奇跡のような出来事です。
けれど、それをいちいち意識していたら、
たぶん、何もできなくなってしまいます。

奇跡は、驚き続けるためにあるというより、
その上に、何気ない日々を乗せるためにある。
最近は、そんなふうに感じています。

紙で出会ったから、紙で買った

先日、ワンピースの110巻をまだ買っていなかったことに気づき、
最寄り駅の本屋に立ち寄りました。

電子書籍で買えば、すぐに済む話です。
けれど、ワンピースだけは、ずっと紙で買い続けてきた流れがあります。

案の定、店頭にはありませんでした。

そのまま帰ってもよかったのですが、
なぜか店を出ずに、
小説や新書の棚を眺めていました。

そこで、たまたま一冊の本が目に入りました。
東大時代から付き合いのある、
一番尊敬している後輩、森田真生の、
まだ買っていなかった本でした。

探していたわけでも、
比較していたわけでもありません。

紙で出会ったから、紙で買った。
それだけのことでした。

体感として残る、ということ

紙の本は、場所を取りますし、効率も良くありません。

それでも、紙にしかない体感があります。

電子で読んでいる本もあれば、
紙で持っている本もあります。

どちらが正しい、という話ではなく、
どんな関係で、その本と出会ったかの違いなのだと思います。

出会いが重なって、残るもの

似たようなことを、
いま使っているカバンについても思い出します。

数年前、そろそろ仕事用のバッグを新調しようと思い、
たまたまストラスブルゴに立ち寄りました。

その日は、Ciseiというブランドのカバンの企画をやっていて、
さらに偶然、普段はパリにいるデザイナー本人が店に来ました。

会話をし、革を選び、発注しました。

あとから考えれば、
そこそこ確率の低い出来事なのかもしれません。

けれど、地球や生命、
宇宙の始まりまで含めて考えてしまえば、
その確率はたいしたことではないようにも思えますし、
どこか必然だったようにも感じられます。

だから、特別に興奮することもなく、
ただ、そのまま発注し、
数カ月後、受け取りました。

驚かない、という態度

ずっと前のことも、ふと思い出します。

会社の先輩の実家に泊めてもらった翌朝、
高円寺の駅のホームで、
苫小牧高専の同級生に会ったことがありました。

先輩は「そんな偶然ある?」と驚いていましたが、
自分は「おお、元気?」というくらいの反応でした。

言われてみれば、確かに不思議な確率です。

けれど、そのときは、
起きて当たり前のことのように感じていました。

考えるより先に、
そういうふるまいが自然に出てしまう
それは、そういう世界の見方で生きている、
ということなのだと思います。

感情がないのではなく、沈めている

こうした話をすると、
感情があまり表に出ない人だと思われることもあります。

たしかに、驚いたり感動したりしても、
それをすぐに外に出すことは多くありません。

でも、まったく出さないかというと、
そういうわけでもありません。

人前で涙することもありますし、
よく笑うほうだとも思っています。

ただ、驚きに対しては、
どこか耐性のようなものがあるのかもしれません。

予想外の出来事や、
多少のトラブルが起きても、
大きく動じることはあまりありません。

感情が少ないかというと、
むしろ、種類も振れ幅も、
かなり多いほうなのではと思うこともあります。

ただ、それをすぐに表現せず、
いったん日常の中に沈めているだけで。

奇跡に驚きすぎないという態度も、
感情がないからではなく、
感情を、日常に溶かしているだけなのかもしれません。

これは、あくまで自分の感覚の話ですが、
同じようなことは、誰にでも起きているのだと思います。

ここまで書いてきたのは、
奇跡を特別扱いしない、という話でした。

もちろん、
奇跡の上に日常があるからといって、
もう何も起きない、というわけではありません。

その上で、
さらに奇跡みたいな確率が重なることもあります。

たとえば、宝くじに当たるような出来事。
あるいは、思いもよらない再会や、
人生の流れが大きく変わる瞬間。

そうしたことが起きたら、
それはそれで、素直に面白い。

ただ、それを前提に生きるわけでも、
期待して待つわけでもなく、
日々は、相変わらず歩いていく。


奇跡は、確かに起きている。
いつも、どこでも。

でも、それを
特別扱いしなくてもいい。

奇跡の上に、
何気ない日々がある。

その僅かな差分を感じながら、
今日も歩いていく。


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Shingo Takenaka

Shingo Takenaka

しなやかな律を探る実践者|APLF主宰

北海道・苫小牧市に生まれ育つ。東京大学大学院を修了後、外資系テック企業で働きながら起業。 現在は、人・もの・自然をつなぐ活動を軸に、自己の律と他者との共生を探求しています。 APLFでは「自分らしく、しなやかに生きる」ための実践知を静かに発信し、日々の整えから人生の投資と回収まで、思考と行動を重ねながら日常の美しさを見つけ続けています。

  1. 0の側に触れた夜— 向きが変わっていたことについての記録

  2. 静かな呼吸としてのAPLF─ 強い言葉を使わない、という選択について

  3. 世界と距離を取るという、生き方 ─ ここにいながら、巻き込まれすぎない

このメディアをつくっている人

Shingo Takenaka

APLF主宰

しなやかに、自分の律で生きる
人と自然、もののめぐりを見つめながら
東大院|外資テック|起業10年

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去年の旭山で。

何をしているのかは、よく分からない。
でも、ずっと見ていられた。
.
光の向きで、部屋の表情が変わる。
ゆっくりと火の季節になってきた。
.
ひとりで歩く夜でも、
どこかで誰かとつながっている気がする。

看板の灯りや、店に流れる小さな気配が、
そっとこちらの歩幅を整えてくれる。

この街の夜にも、静かなやさしさがある。

日々、誰かや何かとの出会いがあって、
それが過剰な意味を持たなくてもいい。
気負いすぎず、気負わなすぎず、
ただ今日を歩いていけばいい。
.
失われていくものには、静かな美しさがある。

街も、人も、建物も、生きているように変わっていく。
生まれ、育ち、そして少しずつ朽ちていく。

その流れは止められない。
だからこそ、心が動くのだと思う。

かつて誰かが暮らし、笑い、
生活の音があったはずの場所に立つと、
そこに残る “気配” に触れることがある。

完全には戻らないもの。
もう取り戻せない時間。

その不可逆さが、優しさや懐かしさを生む。

失われるからこそ、
大切にしようと思えるし、
誰かに優しくなれたり、
いまを丁寧に味わえるようになったりする。

衰えることは、ただのマイナスではない。
そこから新しい命や文化が生まれ、
誰かが受け継ぎ、形を変えながら残っていく。

すべてが永遠に続く世界より、
終わりがある世界のほうが、きっと美しい。

生命も、街も、建物も、
変わっていくことで息をしている。

その無常を抱きしめながら、
今日をちゃんと生きていきたい。

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