What Remains Is Not Memory
外縁|星の光が届いているあいだに(02)
何かが残っているように感じるとき、
それは本当に「記憶」なのだろうか。
そう思うことがある。
記憶は、思っているほど確かなものではない。
時間とともに書き換わり、
夢の中で再構成され、
事実と感情が混ざり合う。
同じ出来事でも、
思い出すたびに輪郭が変わる。
語るたびに、別の意味が貼り直される。
だからといって、
記憶を否定したいわけではない。
ただ、
主観だけを、あまり信用しすぎない方がいい。
そんな気がしている。
それでも、
確かに「残ってしまう」ものがある。
誰かの言葉遣いが、
自分の口癖として現れることがある。
判断の癖や、
物事の受け取り方の傾向が、
いつのまにか身についていることもある。
選ばなかったはずの道が、
ある時点から「選択肢に入らなくなる」こともある。
祖父母や、友人や、
一緒に暮らしていた動物との関係が、
自分の内面というより、
外側の世界の振る舞いを変えているように感じることがある。
それは、
覚えているから、というよりも、
すでに組み込まれてしまっている。
そんな感覚に近い。
祖父の言葉の癖。
祖母の判断の速さ。
直接教わったわけではない価値観。
遺伝子の話もあるだろう。
生活環境や、家のつくり、
庭や、そこにあった物の配置もある。
母や叔母を通して、
間接的に伝わってきたものも多い。
話していなくても、
会っていなくても、
残っているものがある。
人だけではない。
家や、場所や、道具も、
気づかないうちに、行動を変えている。
それらは、
思い出として保存されているというより、
因果として、世界に残っている。
そんなふうにも見える。
星の光や、電波のことを思い出す。
それらは、
何かを伝えようとして放たれたわけではない。
意味を持っていない。
メッセージですらない。
それでも、
情報として届く。
届いた結果、
何かが変わる。
そこにあるのは、
意味ではなく、影響だ。
意味は、
後から人が貼る。
人は、
「あの人がいたから、いまの自分がある」
と語る。
それが正しいかどうかは、分からない。
けれど、そう語ること自体は、
とても自然だと思う。
人は、理由を作る生き物だ。
因果を物語として編み直す。
それによって、
世界と折り合いをつけてきた。
意味づけは、
存在を生み出すというより、
存在に居場所を与える行為なのかもしれない。
残るかどうかは、分からない。
けれど、
影響は、思っているより消えにくい。
それは、
記憶の中ではなく、
世界の振る舞いの中に、
すでに折り込まれているのかもしれない。
では、
どこまでが「人」なのだろうか。
身体か。
記憶か。
遺伝か。
環境か。
それとも、
そのすべてのあいだに立ち上がる、
何かなのか。
まだ、分からない。
ただ、
そう簡単に線を引けないことだけは、
確かなように思える。
この文章は『外縁』に置かれています。
外縁 —— Being Here