While Starlight Still Reaches
星の光は、何万年、何億年という時間をかけて、いまもどこかへ届いている。
それは星が「残そう」とした結果ではない。
それでも、光は届いてしまう。
意志とは無関係に、存在の痕跡が広がり続ける。
この連載は、そんなところから始めてみたい。
人は、いつ「消える」のだろう。
死んだときか。
忘れられたときか。
誰にも観測されなくなったときか。
肉体は、少なくともなくなる。
思考も、なくなるのかもしれない。
魂は残るのだろうか。
神が、固定された存在ではなく、
関係性のエッジに立ち上がるものだとすれば、
魂もまた、そのようなものなのかもしれない。
観測の主体は、人なのだろうか。
少なくともしばらくは、人類が存在し続けるだろう。
しかし、その先も観測する主体は、人である必要があるのか。
宇宙というスケールで考えれば、
存在は永遠に消えないのかもしれない。
思考や感情、記憶や意識。
それらはすべて、分子や電子の配置や流れとして捉えることもできる。
まだ解明されていない素粒子や、別の何かがあるとすれば、
その配置や動き、流れ、勢いによって、
何が起きてもおかしくはない。
そう考えると、
生命があること、心があることが、
特別に不思議な出来事だと言い切れなくもなる。
不思議でもあり、
不思議でもない。
「死者」という言葉がある。
「霊」という言葉もある。
それらの言葉が存在しているという事実は、
死後も、何らかの形で存在が消えていない、
そう人が理解してきたことを示している。
実際のところは、分からない。
けれど、人は長い時間、その言葉を受け入れてきた。
受け入れてきた以上、
存在していると考える方が、むしろ自然なのかもしれない。
言葉にした途端に、存在する。
思念が、存在を生み出す。
都市伝説のようなものも、
その構造の延長にあるのだろう。
誰かや何かを忘れずに生きていると、
自分もどこかに残っているような気がする。
それが生きる理由なのかは、分からない。
けれど、生きられている感覚は、たしかにある。
亡くなった祖父や祖母のことを覚えている。
ギンガやテラのことも覚えている。
亡くなったけれど、存在がいなくなったとは感じていない。
数年に一度しか会わなかった人がいて、
その人が亡くなり、二度と対面では会えなくなったとき、
「もう会えない」と頭では理解している。
それでも、元々長く会っていなかったせいか、
あまり違いがない感じもする。
また会えるような気もする。
それは、祖父や祖母についても同じだ。
夢の中では、会えることもある。
現実と仮想の境界は、思っているほど明確ではないのかもしれない。
祖父や祖母から受けた厳しさや優しさは、
いまも自分の中に息づいている。
先にいってしまった友人に連れて行ってもらった店との関係も、
いまも続いている。
やはり、存在はいまも、確かにある。
それどころか、
「自分が存在している」という感覚よりも、
「祖父がいた」「いまもここにある」という感覚の方が、
実は強いのではないかと思うこともある。
個人的には、
これから人類や地球がどうなっていくのかを、観ていたい。
それは、観測者としての自分なのかもしれない。
ただし、
いまこの地球や宇宙の一員として生きている(らしい)自分がいて、
単なる観測者ではいられず、
同時に登場人物でもある。
だから、自分の人生も、
できれば面白くあってほしいと思う。
映画にできるような出来事があれば、
それはそれで悪くない。
神でも、特別な何者でもない。
それでも、永遠に観測していたい気もするし、
永遠は退屈だとも感じる。
閃光のように生きること。
木漏れ日のように生きること。
適切な表現かは分からないが、
一瞬と永遠を、同時に抱えていたいのかもしれない。
刹那と永遠。
残ることは、目的ではない。
残らないことも、失敗ではない。
ただ、
観測され続けている可能性がある。
それを、
否定しきれないまま、生きている。
この文章は『外縁』に置かれています。
外縁 —— Being Here
