Power, Unlocated
最近、
「人を動かす力はどこにあるのか」という問いが、
以前ほど単純に扱えなくなっている。
正確に言えば、
力があるか、ないか、
という話ではなく、
力という言葉が、
何を指しているのか分からなくなってきた。
力とは、何を指しているのか
一般に「力がある」と言うとき、
どこかにエネルギーが蓄えられていて、
それが外に向かって放たれるようなイメージを持つことが多い。
影響力、説得力、推進力。
マーケティングや心理学、脳科学、交渉術も、
多くはこの前提の上に組み立てられている。
実際、
言葉を選び、構造を設計し、
人を動かすことはできる。
APLFも、
それを知らないわけではないし、
必要があれば使うこともある。
けれど、
ふと立ち止まったとき、
そもそもその「力」は、
どこから来ているのだろうかと思うようになった。
力は、単体では存在しない
物理学でいう「力」は、
単体では存在しない。
必ず対象があり、
関係の中でしか働かない。
この感覚の方が、
いま考えていることには近い。
力は、
どこかに“内蔵”されているものではなく、
関係が結ばれたときに、
その場に立ち上がるものなのではないか。
音楽に、力はあるのか
音楽を聴いて、
心が動くことがある。
涙が出ることもある。
身体が反応することもある。
そういう瞬間だけを見ると、
音楽そのものに力があるように思える。
けれど、
同じ音楽でも、
何も起きないときもある。
音楽は、
聴かれて、はじめて音楽になる。
料理が、食べられて料理になるように。
本が、読まれて本になるように。
音楽も、
人との関わりの中で立ち上がる。
それでも、音は鳴り続けている
ただ、
自然界の音を思い浮かべると、
話は少しずれる。
風の音。
水の音。
虫や鳥の羽音。
人がいなくても、
音は鳴り、
互いに影響し合っている。
人も自然の一部だとすれば、
「人が作った音楽」と
「自然の音」を
きっぱり分ける必要はないのかもしれない。
音楽とは、
特定の音の集合ではなく、
生きているリズムに身をひらく行為
なのではないか。
音楽は、耳だけのものではない
数学を「演奏会」として扱う試みがある。
解く対象としてではなく、
味わうものとして数学に触れる。
それは、
音楽を「耳で聴くもの」に限定しない感覚と、
どこかで重なっている。
音楽とは、
音そのものではなく、
時間、間、緊張、揺らぎを含めた
体験そのものなのかもしれない。
文章も、同じ構造をしている
文章にも、
似たことが言える。
映像は、
具体を固定する。
「世界一の美女」と言えば、
映像では
誰か一人を示さなければならない。
けれど、
文章で「世界一の美女」と書いたとき、
それぞれの読み手の中に、
それぞれの像が立ち上がる。
文章は、
意味を与えるというより、
意味が立ち上がる余白を残す。
力があるとすれば、
それは文章の側ではなく、
関わる側に分散している。
APLFが、強い言葉を前に出さない理由
APLFでは、
強い言葉を前に出さない。
主張を押し出さない。
行動を促す設計を中心に置かない。
それは、
できないからでも、
否定しているからでもない。
この場では、使わないと選んでいるだけだ。
APLFは、
誰かを説得するためのメディアではなく、
人を動かすための装置でもない。
力を集めない、という選択
意味をこちらで決めない。
価値をこちらで固定しない。
力をこちらに集めない。
そうすることで、
受け取る側の呼吸が、
そのまま残る。
分かりにくさも残る。
入口も一つではない。
それでいいと思っている。
力は、関係の中で立ち上がる
音楽と人。
文章と人。
人と人。
人と自然。
コンテンツと呼ばれるものも、
ただの点(ノード)ではない。
関係の中で、
矢印が行き交い、
共振し、
共鳴し、
高まったり、沈んだりする。
力は、
そこにあとから現れる。
力は、どこにあるのか分からない
だから、
「コンテンツに力はない」と
言い切りたいわけではない。
ただ、
力は、どこにあるのか分からない。
関わりの中で、
あとから立ち上がる。
APLFは、
その「あとから起きる何か」を
無理に操作しない場所として、
静かに置かれている。
この文章は『外縁』に置かれています。
外縁 —— Being Here