While Starlight Still Reaches
外縁|星の光が届いているあいだに(01)
星の光は、何万年、何億年という時間をかけて、いまもどこかへ届いている。
それは星が「残そう」とした結果ではない。
それでも、光は届いてしまう。
意志とは無関係に、存在の痕跡が広がり続ける。
そんなところから始めてみたい。
人は、いつ「消える」のだろう。
死んだときか。
忘れられたときか。
誰にも観測されなくなったときか。
肉体は、少なくともなくなる。
思考も、なくなるのかもしれない。
魂は残るのだろうか。
神が、固定された存在ではなく、
関係性のエッジに立ち上がるものだとすれば、
魂もまた、そのようなものなのかもしれない。
観測の主体は、人なのだろうか。
少なくともしばらくは、人類が存在し続けるだろう。
しかし、その先も観測する主体は、人である必要があるのか。
宇宙というスケールで考えれば、
存在は永遠に消えないのかもしれない。
思考や感情、記憶や意識。
それらはすべて、分子や電子の配置や流れとして捉えることもできる。
まだ解明されていない素粒子や、別の何かがあるとすれば、
その配置や動き、流れ、勢いによって、
何が起きてもおかしくはない。
そう考えると、
生命があること、心があることが、
特別に不思議な出来事だと言い切れなくもなる。
不思議でもあり、
不思議でもない。
「死者」という言葉がある。
「霊」という言葉もある。
それらの言葉が存在しているという事実は、
死後も、何らかの形で存在が消えていない、
そう人が理解してきたことを示している。
実際のところは、分からない。
けれど、人は長い時間、その言葉を受け入れてきた。
受け入れてきた以上、
存在していると考える方が、むしろ自然なのかもしれない。
言葉にした途端に、存在する。
思念が、存在を生み出す。
都市伝説のようなものも、
その構造の延長にあるのだろう。
誰かや何かを忘れずに生きていると、
自分もどこかに残っているような気がする。
それが生きる理由なのかは、分からない。
けれど、生きられている感覚は、たしかにある。
亡くなった祖父や祖母のことを覚えている。
ギンガやテラのことも覚えている。
亡くなったけれど、存在がいなくなったとは感じていない。
数年に一度しか会わなかった人がいて、
その人が亡くなり、二度と対面では会えなくなったとき、
「もう会えない」と頭では理解している。
それでも、元々長く会っていなかったせいか、
あまり違いがない感じもする。
また会えるような気もする。
それは、祖父や祖母についても同じだ。
夢の中では、会えることもある。
現実と仮想の境界は、思っているほど明確ではないのかもしれない。
祖父や祖母から受けた厳しさや優しさは、
いまも自分の中に息づいている。
先にいってしまった友人に連れて行ってもらった店との関係も、
いまも続いている。
やはり、存在はいまも、確かにある。
それどころか、
「自分が存在している」という感覚よりも、
「祖父がいた」「いまもここにある」という感覚の方が、
実は強いのではないかと思うこともある。
個人的には、
これから人類や地球がどうなっていくのかを、観ていたい。
それは、観測者としての自分なのかもしれない。
ただし、
いまこの地球や宇宙の一員として生きている(らしい)自分がいて、
単なる観測者ではいられず、
同時に登場人物でもある。
だから、自分の人生も、
できれば面白くあってほしいと思う。
映画にできるような出来事があれば、
それはそれで悪くない。
神でも、特別な何者でもない。
それでも、永遠に観測していたい気もするし、
永遠は退屈だとも感じる。
閃光のように生きること。
木漏れ日のように生きること。
適切な表現かは分からないが、
一瞬と永遠を、同時に抱えていたいのかもしれない。
刹那と永遠。
残ることは、目的ではない。
残らないことも、失敗ではない。
ただ、
観測され続けている可能性がある。
それを、
否定しきれないまま、生きている。
この文章は『外縁』に置かれています。
外縁 —— Being Here