Life as Investment and Return
外縁|星の光が届いているあいだに(12)
投資と回収、という言葉には、
どうしても現実的な響きがある。
お金。
時間。
労力。
成果。
多くの場合、
この言葉は、
効率や最適化と結びついて語られる。
けれど、
少し立ち止まって考えてみると、
人は生きているだけで、
常に投資をしている。
朝、起きること。
誰かと話すこと。
移動すること。
何かを選ぶこと。
それらすべてが、
時間と体力と注意を使っている。
つまり、
投資だ。
問題は、
投資をしているかどうかではない。
どんな前提で投資しているか。
短期的な回収を前提にすると、
世界はすぐに窮屈になる。
結果が出ない時間は、
無駄に見える。
回収できない関係は、
失敗に見える。
けれど、
生命のスケールで見れば、
投資と回収は、
そんなに直線的ではない。
感じて、
動いて、
外れて、
調整する。
この循環は、
すぐに成果を返してくれないことも多い。
たとえば、
人との関係。
時間をかけて話し、
理解しようとしても、
何も返ってこないように感じることがある。
それでも、
数年後、
まったく別の場面で、
その関係が効いてくることがある。
学びも同じだ。
すぐに役立たない知識。
使い道の分からない経験。
それらは、
一時的には回収不能に見える。
けれど、
人生のどこかで、
予想もしない形で、
回収される。
あるいは、
回収されたことにすら、
気づかないかもしれない。
ここで、
大事な分かれ目がある。
投資を、
回収のためだけに行うか。
それとも、
関係を結び続けるために行うか。
前者では、
回収できないものは切られる。
後者では、
すぐに回収できなくても、
関係が続いているかが問われる。
APLFで言う、
「投資と回収」は、
後者に近い。
成果を出すことを否定しない。
お金を稼ぐことも否定しない。
ただし、
回収の尺度を、
一つに固定しない。
数値で返ってくる回収もある。
安心感として返ってくる回収もある。
選び方が変わる、という回収もある。
あるいは、
自分ではなく、
誰かの人生に回収されることもある。
ここで重要なのは、
投資は、必ずしも自分に返ってこなくていい、
という感覚だ。
それは、
自己犠牲とは違う。
回収される場所を、
あらかじめ決めすぎない、
という態度だ。
市場原理の中では、
投資は、
「誰が」「いつ」「いくら返すか」
が明確であるほど、安心される。
けれど、
生命の原理は、
もっと曖昧だ。
どこで回るか分からない。
誰に届くか分からない。
そもそも、
回収と呼べるかも分からない。
それでも、
投資はなされていく。
生きている限り。
選び方としての実践が、
ここで効いてくる。
短期回収だけを前提にしない。
長期の循環を、
完全に信じきるわけでもない。
信じて、
疑って、
それでも投じてみる。
投資と回収は、
計算ではなく、
態度として現れる。
どこに時間を使うか。
どこに注意を向けるか。
何を大切に扱うか。
それらの積み重ねが、
人生の形を、
少しずつ決めていく。
次に進むなら、
ここまでの話を、
もう一段、具体に降ろせる。
では、
この投資と回収は、
仕事やサービス、
価値の交換として、
どう立ち上がるのか。
この文章は『外縁』に置かれています。
外縁 —— Being Here