Feeling and Action, Once Separated
生命は、
感じることと、動くことで成り立っている。
外界の変化を感じ取り、
それに応じて、何らかの行動を起こす。
当たり前すぎて、
あまり意識されない構造だ。
感じること(Feeling)。
動くこと(Action)。
この二つは、本来、切り離せない。
感じたから動き、
動いた結果を、また感じる。
循環の中で、
生命はかろうじてバランスを保っている。
けれど、近代に入って、
人間はひとつの発見をした。
この二つは、
分けられるのではないか。
動くことだけを切り出し、
そこから感情や意味を取り除く。
一定の手順を踏めば、
誰でも同じ動きが再現できる。
それを、人間ではなく、
道具や機械に任せる。
この発見は、
圧倒的な力を持っていた。
大量生産。
効率化。
標準化。
珍しいものを、珍しくなくすることで、
エネルギーを取り出す。
取り出したエネルギーは、
やがて「お金」と呼ばれる形に変換される。
動くことは、
速くなり、安くなり、均一になった。
その一方で、
感じることは、
切り離されたまま、宙に浮く。
感じることが不要になったわけではない。
むしろ逆で、
行き場を失ったFeelingは、
別の場所へと集められていく。
余った時間。
余った注意。
余った感情。
それらは、
広告や娯楽、マーケティングによって
回収されていく。
単純な操作。
繰り返される刺激。
報酬と反応のループ。
動いているようで、
実際には、動かされている。
感じているようで、
感じさせられている。
ここで大切なのは、
これを善悪で語らないことだ。
この構造は、
ある意味で、非常に合理的だ。
マニュアル化された現場。
定型化された教育。
再現性を重視する訓練。
感じることを排し、
動くことだけを抽出する。
誰でもできるようにするために、
誰の心も必要としない設計にする。
それは、
多くの人を救ってきた。
事故を減らし、
品質を安定させ、
生活を支えてきた。
同時に、
何かが削ぎ落とされてもきた。
感じることと、動くことが、
別々に強化されていく。
社会の側では、
Actionだけが肥大する。
一方で、
Feelingは、
スピリチュアルや内面世界へと押しやられる。
感じるだけで、
動かない世界。
動くだけで、
感じない世界。
どちらも、
生命としては、どこか歪んでいる。
ここで、
誤解しやすい点がある。
機械やテクノロジーが、
この分断を生んだわけではない。
問題は、
切り離したまま、
再び結び直そうとしなかったことだ。
感じることと、動くことは、
本来、互いに照らし合う。
感じたから動き、
動いた結果を感じる。
そこに、
学びや調整が生まれる。
けれど、
感じることを
「内面の問題」として閉じ込め、
動くことを
「外部の効率」として扱うと、
両者は、
もう出会わなくなる。
この分断は、
人を空虚にする。
動いても、
なぜ動いているのか分からない。
感じていても,
どう動けばいいのか分からない。
それでも、
切り離したこと自体が、
間違いだったとは言えない。
分けたからこそ、
見えたものもある。
拡張できた領域もある。
いま問われているのは、
元に戻すことではない。
どう再び、
関係を結び直すかだ。
感じることと、動くこと。
人と機械。
心とテクノロジー。
分断するのではなく、
敵対するのでもなく、
どの距離で、
どの役割で、
並べ直すのか。
次に考えたいのは、
ここから自然に立ち上がる問いだ。
人間以外の存在は、
どんなふうに感じ、
どんなふうに動いているのだろうか。
この文章は『外縁』に置かれています。
外縁 —— Being Here