Relating as a Stance
人間は、
世界の中心に立ち続けてきた。
少なくとも、
そう振る舞ってきた。
理解し、
分類し、
制御する。
それによって、
世界は「扱えるもの」になった。
自然は資源になり、
時間は管理対象になり、
生命は最適化の対象になった。
その結果、
多くのものがうまく回りはじめた。
同時に、
何かがうまくいかなくなった。
第7回で触れた、
非人間的な知性の前に立つとき、
人間は少し戸惑う。
彼らは、
意味を語らない。
目的を説明しない。
それでも、調和している。
ここで問われるのは、
「どちらが正しいか」ではない。
人間が中心であるべきか、
自然が中心であるべきか、
という話でもない。
問われているのは、
どんな態度で関係を結ぶかだ。
関係を結ぶ、というと、
理解し合うことや、
同意することを想像しがちだ。
けれど、
非人間的な存在との関係は、
そういう形をとらない。
植物と、
「分かり合う」ことはできない。
惑星と、
「合意」することもできない。
それでも、
関係は確かに結ばれている。
光を受け取り、
水を循環させ、
重力の中で動く。
そこには、
言葉以前の関係がある。
人間も、
本来はその中にいた。
感じ、
動き、
環境とずれながら調整する存在として。
けれど、
感じることと動くことを分け、
意味と行為を切り離し、
効率と最適化を進める中で、
関係は、
操作に近づいていった。
操作は、
短期的には強い。
けれど、
長期的には、
相手を壊すか、
自分を壊す。
ここで、
別の態度が立ち上がる。
支配でもなく、
放棄でもない。
理解し尽くすでもなく、
分からないまま放置するでもない。
関係を持ち続ける、という態度。
それは、
完全に分からなくても関わること。
制御できなくても、
距離を測り直し続けること。
一度決めた配置を、
何度でも組み替えること。
この態度は、
弱く見えるかもしれない。
けれど、
生命はもともと、
このやり方で続いてきた。
感じて、
動いて、
外れたら調整する。
成功か失敗かではなく、
生き延びられるかどうかでもなく、
関係が続いているかどうか。
人間が、
非人間的な知性と並ぶとき、
必要なのは、
新しいルールではない。
必要なのは、
立ち位置を固定しない勇気。
中心にも、
外側にも、
ときどき立ちながら、
行き来する存在であること。
関係を結ぶとは、
一度つながることではない。
結び直し続けることだ。
この先に進むなら、
次に自然に立ち上がる問いは、
さらに個人的なものになる。
では、
この態度を、
自分の生き方にどう落とすのか。
この文章は『外縁』に置かれています。
外縁 —— Being Here